体験版
16
咲耶と大翔 弐 表紙

咲耶と大翔 弐

エピソード5

イチボ丸

一 咲耶

 大翔と付き合って、もう4年になる。19歳で初めて抱かれた夜から——

 あの夜のことは、体が覚えている。痛くて、怖くて、でも離れたくなかった。大翔さんの大きな手が私の腰を掴んで、あの匂いが部屋に充満して——朝になっても、まだ体の奥がじんじんしていた。

 23歳になった。

 グラビアの仕事は減った。減った、というより、私が減らした。撮影の合間に受けた深夜ドラマのちょい役がきっかけで、芝居の仕事が増え始めた。水着の仕事がなくなったわけじゃない。ただ、カメラの前で笑うだけの自分に、少しだけ飽きていた。

 大翔は変わらない。映像制作の仕事を続けて、ジムに通って、たまに料理をして。穏やかで、不器用で、口下手で——会えば安心する。

 会えば。

 その「会えば」が、問題だった。

 撮影が入れば1ヶ月は東京を離れる。バラエティの収録が重なれば週末も潰れる。大翔の仕事だって忙しい。すり合わせて、すり合わせて——それでも、会えるのは2ヶ月に3日か4日。多い月で、そのくらい。

 電話はする。メッセージもする。でも画面越しの大翔は、あの大きな体の温度を伝えてくれない。声は聞こえても、匂いがしない。

 嫌いになったわけじゃない。飽きたわけでもない。

 ただ——会えない時間が、長すぎた。

 4月。

 深夜枠の恋愛ドラマに、ヒロインの親友役で出ることが決まった。

 主演ではない。脇だ。でもマネージャーの佐伯さんは「これ、いいよ。脚本がしっかりしてる。咲耶ちゃんの演技、ちゃんと見てもらえるよ」と言った。

 台本を読んだ。親友役——恋に臆病なヒロインの背中を押す、明るくて少しだけ危うい女の子。台詞の量は多くない。でも芝居で見せなきゃいけない場面がいくつかあって、そこが怖くて、少しだけ楽しかった。

 クランクインは5月の頭。顔合わせが4月の半ばにあった。

 スタジオの会議室。スタッフとキャストが長机を囲んで座る。台本が配られて、監督が全体の方向性を話して、プロデューサーが挨拶して——よくある段取りだった。

 男性主演の名前は知っていた。宮野蓮。25歳。舞台出身で、去年の連ドラで注目されて、今回が深夜帯での初主演。テレビで何度か見たことがある。清潔感があって、目が涼しくて、笑うと少しだけ目尻が下がる——そういう顔だった。

 隣の席だった。

「——よろしくお願いします」

 蓮さんが先に声をかけてきた。背筋がまっすぐで、姿勢がいい。舞台の人だ、と思った。声の通りが違う。

「よろしくお願いします」

 それだけ。最初はそれだけだった。

 撮影が始まった。

 現場は慌ただしくて、楽しかった。グラビアの撮影とは全然違う。照明とカメラの位置を確認して、立ち位置を覚えて、相手の台詞を受けて、自分の台詞を返す。同じシーンを何度も繰り返す。OKが出るまで、何度でも。

 芝居は難しかった。

 グラビアなら、カメラの前で笑えばいい。自分の体を見せて、いい角度を作って、シャッターに合わせて表情を変える。それは4年やったから、もう体に染みついている。

 でも芝居は違う。台詞を言うだけじゃ駄目で、「その人間として、そこにいる」必要がある。頭ではわかっている。でも体がついてこない。カメラが回ると、どうしてもグラビアの癖が出る。目線がレンズに吸い寄せられる。表情が「見せる」ためのものになってしまう。

 監督に何度か言われた。「もっと自然に。相手を見て」

 わかっている。わかっているのに——

「——台本、読み合わせしませんか」

 蓮さんだった。

 撮影が終わった後のスタジオの隅。スタッフが片づけをしている中で、蓮さんが台本を持って立っていた。

「明日のシーン、二人の掛け合いが多いんで。もし時間あれば」

「あ——はい。お願いします」

 空いた楽屋を借りて、パイプ椅子を向かい合わせに置いた。蓮さんが台本を開いて、最初の台詞を読んだ。

 声が違う。

 さっきまでの撮影とは、密度が違った。たった二人の空間で、蓮さんの声がまっすぐ飛んでくる。こっちも返す。返すと、また返ってくる。台詞が生きている、と思った。

 何度か繰り返した後で、蓮さんが台本を閉じた。

「——いいですね。ここの間、もう少し詰めたほうがいいかも」

「間?」

「親友が本音を言う瞬間。台詞の頭で一拍置いてるけど、むしろ被せ気味に入ったほうが、言っちゃった感が出ると思うんです」

 具体的だった。曖昧に「もっとこうして」じゃなくて、どこを、どう変えるか。

「蓮さん、そういうの——よく見てますね」

「俺、芝居しかやってこなかったんで」

 少しだけ笑って、蓮さんは言った。

「だからこそ見えることもあると思うんですよ。グラビアの仕事を何年もやってきた人には、俺にはない強みがある。目線の作り方とか、カメラとの距離感とか。でも芝居のリズムはまた別の筋肉だから——慣れるまでは、ちょっとしたコツみたいなものがあるんです」

 偉そうじゃなかった。上から教えている感じでもない。同じ現場にいる人間として、対等に話している。

 大翔にはできないことだ、と思った。

 大翔は映像制作の人間だから、カメラの向こう側のことはわかる。でも、カメラのこちら側——演じる側の感覚は、わからない。わかろうとしてくれるけど、わからない。

 蓮さんは、こちら側の人間だった。

 読み合わせは、何度かあった。

 蓮さんが声をかけてくることもあるし、私から「今日のシーン、合わせてもらえますか」と言うこともあった。回を重ねるうちに、蓮さんのアドバイスが的確だとわかってきた。芝居の話だけで30分があっという間に過ぎる。

 楽しかった。

 撮影が順調に進んで、6月に入った頃——

「打ち上げ行きません?」

 金曜の夜。その日のオールアップの後だった。蓮さんがスタッフ数人に声をかけて、近くの居酒屋に流れる話になった。

 私も行った。スタッフ4人と、共演者が蓮さんと私を含めて3人。カウンターと小上がりに分かれて、わいわいと飲んだ。

 最初はみんなで話していた。撮影の裏話、監督のクセ、照明さんの拘り。現場の人間しかわからない話は楽しい。

 だんだん人が減っていった。

 終電がある人から抜けて、タクシーで帰る人が続いて——気がつけば、カウンターに蓮さんと二人で残っていた。

「——もう一杯だけ」

 蓮さんがグラスを掲げた。ハイボール。私はカシスオレンジの3杯目。少しだけ酔っている。頬が熱い。カウンターの照明が暗くて、蓮さんの横顔に影が落ちている。

「咲耶さん、芝居好きですか」

「え?」

「好きかどうか。うまいかどうかじゃなくて」

 考えた。箸置きに目を落として、それから蓮さんの顔を見た。

「……好き、だと思います。まだよくわからないけど。グラビアとは全然違って、怖いけど——怖いのが楽しい、みたいな」

「それでいいと思います」

 蓮さんは頷いた。グラスの氷がからんと鳴った。

「うまくなりたいって思ってるうちは、うまくならないんですよ。好きだから続ける。続けるから、ある日突然できるようになる。——俺もそうだったから」

 舞台の話を聞いた。小劇場で客が10人しかいない日のこと。演出家に怒鳴られて泣いた話。それでも舞台に立ち続けた理由。

「怒鳴られてる時ってさ、頭が真っ白になるんですよ。何も考えられない。ただ——舞台の上にいる自分だけが、やけにくっきり見える。その瞬間が、たまらなく好きなんです」

 蓮さんは、芝居の話をしている時だけ、少しだけ声が低くなった。目が真剣になる。でも力んでいるわけじゃなくて、自然に、声がそこに降りていく感じ。

「咲耶さんは、グラビアが嫌で芝居に来たんですか」

「嫌じゃないです。でも——」

 言葉を探した。大翔にも聞かれたことのある質問だった。大翔に聞かれた時は、うまく答えられなかった。「なんとなく」としか言えなくて、大翔は「そっか」と笑ってくれた。それ以上は聞かなかった。大翔はいつもそうだ。無理に踏み込まない。優しいけれど——踏み込んでほしい時にも、踏み込まない。

「——グラビアは、見せる仕事なんです。私の体を、私の顔を。でも芝居は、別の誰かになる仕事で。自分じゃない人間の気持ちを——体を使って生きる。それが、怖くて」

「怖い?」

「自分が空っぽになる感じがするんです。芝居がうまくいった時ほど、終わった後に、私が何者かわからなくなる」

 言ってから、言いすぎたかな、と思った。酔っている。3杯目のカシスオレンジのせいだ。

 蓮さんは黙って聞いていた。否定も肯定もしなかった。ただ少し間を置いて——

「それ、たぶん正しいですよ」

 と言った。

「空っぽになれる人のほうが、いい芝居をする。——俺はそう思ってます」

 大翔のことを思い出した。大翔も仕事の話をする時は声が変わる。静かになって、言葉を選ぶようになって——でも大翔の仕事の話は、カメラの向こう側の話だ。私がどんなに聞いても、最後の一歩が噛み合わない。

 蓮さんの話は、噛み合った。

 同じ場所に立っている人間の言葉だった。

 タクシーを呼んで店を出た。外の空気が夜風を含んでいて、火照った頬に気持ちよかった。蓮さんが「先にどうぞ」とタクシーのドアを開けてくれた。

「今日はありがとうございました。楽しかったです」

「こちらこそ。——また飲みましょう」

 タクシーが走り出して、後部座席の窓から街灯が流れていく。蓮さんの姿がバックミラーの中で小さくなっていった。

 居酒屋の匂い——焼き鳥と煙草と、少しだけ蓮さんの香水の残り香——が、服に染みついていた。

 その夜、マンションに帰ってスマホを見たら、大翔からメッセージが来ていた。

『今日はどうだった?』

 22時14分。私が居酒屋にいた時間だ。

『撮影順調だよ。打ち上げで飲んでた。今帰った』

 既読がついた。でも返信が来るまで5分かかった。

『おつかれ。あんまり飲みすぎるなよ』

 大翔らしい返事だった。優しくて、簡潔で、少し素っ気ない。

『大翔は? 仕事終わった?』

『終わった。飯食って風呂入った。もう寝る』

『早いね笑』

『明日も朝から現場だから。——おやすみ。体気をつけろよ』

『おやすみ!』

 スタンプを送って、スマホを置いた。

 シャワーを浴びて、髪を乾かして、ベッドに入る。天井を見つめる。

 大翔に会いたい、と思った。

 最後に会ったのは3週間前。私の撮影が休みの日と大翔の休みが重なって、半日だけ一緒にいた。大翔の部屋でご飯を食べて、映画を途中まで見て、抱いてもらって——朝には私が先に出た。

 あの時の大翔の匂いを思い出そうとした。シャツに染みついた石鹸の匂い。その奥にある、大翔だけの匂い。首筋に顔を埋めた時の——

 ——思い出せない。

 匂いは記憶から薄れるのが早い。声や顔は覚えていても、匂いだけは、会わないと忘れる。

 会いたい。

 でも、次に会えるのはいつだろう。来月のスケジュールを頭の中で繰ってみたけど、空いている日が見当たらなかった。

 6月の半ば。

 蓮さんと連絡先を交換した。

 きっかけは些細なことだった。翌日の撮影スケジュールが急に変更になって、マネージャー経由で連絡が回ってきたのだけど、蓮さんだけ連絡がつかなかった。「咲耶ちゃん、宮野くんの連絡先知ってる?」と助監督に聞かれて、「持ってないです」と答えたら、「じゃあ交換しといて。現場の連絡用に」と言われた。

 業務連絡用。それだけのことだった。

 翌日、蓮さんにその話をしたら、「あ、すみません。風呂入ってて気づかなかった。確かに、助監督から連絡来てるね」と笑って、スマホを差し出してきた。QRコードを読み取って、友だちに追加した。

 最初のメッセージは蓮さんからだった。その日の夜。

『今日のシーン、良かったですよ。ラストの目線の動き、すごく自然だった』

 撮影の話だった。今日撮ったシーンの、具体的なワンカットについて。

『ありがとうございます。蓮さんに言われると安心します』

『いやいや、俺が言うことじゃないんですけど。でも見てて思ったんで』

 それだけ。短いやり取りだった。

 次の日も、撮影後にメッセージが来た。

『今日のリハ、間の取り方変えてましたよね? あれ良かったです』

 芝居の話。前に読み合わせで蓮さんが言っていたことを試したら、それに気づいてくれた。

『蓮さんが言ってくれたこと、やってみました。ちょっとだけうまくいった気がする』

『気がする、じゃなくて、うまくいってました。自信持っていいですよ』

 褒めるのがうまい人だった。大げさじゃなくて、具体的で、嘘がない。少なくとも——嘘だとは思えなかった。

 メッセージのやり取りが日常になった。

 撮影がある日は、帰りに必ず一通。今日のシーンの感想。ちょっとしたアドバイス。たまに「お疲れさまでした」だけの時もあった。

 撮影がない日にも、たまにメッセージが来るようになった。

『今日休みですか? 俺も休みです。台本読んでます』

『偉い。私は動画見てダメ人間してる笑』

『何見てるんですか?』

 芝居の話から、日常の話に。何を食べたか。どこに行ったか。今日見た空がきれいだった。そういう、中身のない、でも嫌じゃないやり取り。

 大翔とのメッセージは、いつも同じだった。「今日どうだった」「おつかれ」「おやすみ」。短くて、温かくて、余白が多い。大翔は長文を打たない。スタンプもあまり使わない。電話のほうが好きな人だから。

 でも電話する時間が合わない。

 私が撮影から帰る頃には大翔は寝ていて、大翔が起きる頃には私はまだ寝ている。休みの日に電話しても、30分で「じゃあまた」になる。話すことがないわけじゃない。でも電話越しの声は、なんだか遠い。同じ部屋にいる時の大翔の声と、受話器越しの大翔の声は、別物だった。

 蓮さんのメッセージには、いつも芝居の話がくっついていた。それが楽しかった。今の私の仕事に直結する話を、同じ温度で、同じ言語でできる相手。大翔とはできない種類の会話。

 それだけのこと。それだけのことだった。

 境界は、ゆっくりと溶けていった。

 7月に入った。

 撮影は佳境に差しかかっていた。クランクアップまであと2週間。私の出番はあと数シーンを残すだけになっていて、蓮さんは主演だから最後の最後まで現場にいる。

 大翔とは、6月の頭に会ったきり、会えていなかった。もう2ヶ月近く。

 先週、電話した。日曜の午後、珍しく時間が合って、40分くらい話した。大翔が最近手がけた企業PVの話。私がNGを出しまくって監督に申し訳なかった話。大翔は「NGなんて出して当たり前だろ。気にすんな」と笑った。その声を聞いて、ああ、この声だ、と思った。低くて、少しだけ掠れていて、安心する声。

 でもそれだけだった。

 電話を切った後、何かが足りない気がした。声は聞いた。言葉も交わした。でも、大翔の手が私の髪に触れる感触が、首筋に落ちる息の温度が、抱きしめられた時に鼻の奥に入ってくるあの匂いが——全部、ない。

 画面の向こうにいる大翔は、なんだか薄い。平面的というか——奥行きがない。

 蓮さんは、毎日いる。

 撮影現場で隣にいて、声が聞こえて、たまに肩が触れる。リハーサルの合間にアイスコーヒーを差し入れてくれたり、「顔色悪くないですか、ちゃんと寝てます?」と聞いてきたり。

 距離が近い、とは思っていた。でも蓮さんはスタッフにも共演者にも同じように接していたから、私だけに、という感じはしなかった。——しなかった、と思いたかったのかもしれない。

 7月の金曜日。

 夜の撮影が終わって、私はマンションに帰った。シャワーを浴びて、髪を乾かして、冷蔵庫からお茶を出して飲んだ。テレビをつけたけど、何も頭に入ってこない。

 大翔にメッセージを送った。

『今日撮影終わった。疲れた〜』

 既読がつかない。

 時計を見た。23時半。大翔はもう寝ている時間だ。明日も朝から仕事だと言っていた。

 わかっている。大翔が悪いわけじゃない。生活のリズムが違うだけだ。私は深夜まで撮影があって、大翔は朝が早い。すれ違っているだけ。誰も悪くない。

 スマホを枕元に置いて、天井を見た。

 マンションの天井は白くて、何もない。実家の天井とも、大翔の部屋の天井とも違う。ここは私だけの部屋で、私だけの天井で——誰の匂いもしない。

 枕に顔を埋めてみた。柔軟剤の匂いしかしない。大翔の部屋の枕は、大翔の匂いがした。汗と石鹸が混ざった、あの重くて低い匂い。あの枕に顔を押しつけられながら後ろから——

 やめよう。

 一人で考えても、体が熱くなるだけだ。ベッドの端に転がって、壁に向かって丸くなった。膝を抱えると、自分の体が小さいのがわかる。大翔の腕の中にいると、もっと小さくなる。包まれて、潰されそうになって——それが良かった。

 ぴこん、と音がした。

 スマホを手に取った。大翔からの返信——ではなかった。

 蓮さんだった。

『お疲れさまでした。明日の台本、18ページの台詞なんですけど、ちょっと気になるところがあって。もし起きてたら電話していいですか?』

 23時38分。

 台本の話。仕事の話だ。おかしなことは何もない。

 でも——大翔に送ったメッセージの既読はまだつかない。白い天井。静かな部屋。誰の匂いもしない夜。

 そこに、蓮さんからの通知が光っている。

『起きてます。大丈夫ですよ』

 返信を打った。送信した。

 3秒後に、電話が鳴った。

 蓮さんの名前がスマホの画面に浮かんでいる。

 緑のボタンに指を伸ばしながら、私は——ほんの一瞬だけ、思った。

 大翔が寝ている夜に、別の男の電話に出ようとしている。

 それだけのことだ。ただ、それだけのことなのに——胸の奥で、何かが小さく、軋んだ。

 通話ボタンを押した。

「——もしもし」

 蓮さんの声が、暗い部屋に滑り込んできた。

「あ、すみません、こんな時間に。18ページのところなんですけど——」

 台本の話だった。本当に、台本の話だった。蓮さんの声は落ち着いていて、丁寧で、深夜に電話をかけてきた男の声としては、あまりにも普通だった。

 私は枕に頭を預けたまま、蓮さんの声を聞いた。台詞の解釈。カメラの動き。明日のリハーサルで試したいこと。蓮さんが話すたびに、暗い部屋の中に言葉が静かに積もっていく。

 10分くらい話した。

「——ありがとうございます。おかげでちょっと整理できました」

「こちらこそ。助かりました」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい。——明日、よろしくお願いします」

 電話が切れた。

 スマホの画面が暗くなった。通話時間、11分32秒。

 イヤホンを外して、スマホを充電器に置いた。大翔からのメッセージを確認した。まだ既読がついていない。大翔は眠っている。明日の朝、起きたら見るだろう。「おつかれ」と返事が来るだろう。いつもと同じように。

 目を閉じた。

 蓮さんの声が、まだ耳に残っている。それは大翔の声とは全然違う——もっと軽くて、明るくて、近い。すぐそこにいる人の声。

 大翔の声は遠い。遠くて、深くて、会わなければ思い出せない。

 誰も悪くない。

 ただ——今夜、私の耳に最後に残ったのは、蓮さんの「おやすみなさい」だった。

二 大翔

 府中の部屋に着いたのは、22時を過ぎていた。

 黒のSUVを駐車場に入れる。エンジンを切ると、静寂が車内に落ちてくる。撮影機材を積んだ荷室が、エンジンの振動を失って沈黙した。

 降りて、鍵をかけた。4月の夜風が首筋を撫でる。汗ばむには早い。寒くもない。ただ——何もない。

 マンションのエレベーターで7階に上がった。ドアを開ける。靴を脱ぐ。照明をつける。

 誰もいない。

 当たり前のことだ。一人暮らしの部屋に帰って、誰かがいるわけがない。そんなことは20代の頃から変わっていない。変わっていないのに——40になると、同じ「誰もいない」の重さが違う。

 冷蔵庫からビールを出した。プルタブを引く。ぷしゅ、と音がして、それが今日最初の「生活の音」だった。現場では機材の音、スタッフの声、クライアントの要望——常に何かが鳴っている。帰ると、止まる。

 ソファに座った。テレビはつけない。スマホを見た。

 咲耶からのメッセージは——昨日の『おやすみ』で止まっていた。

 既読はついている。俺がつけた。返事は『おやすみ』。それで終わった。

 付き合って4年になる。

 19歳で初めて抱いた夜のことを、体はまだ覚えている。あの肌。あの温度。あの声。指の腹に刻まれた記憶は、4年経っても褪せない。

 でも——会えない。

 咲耶はドラマの撮影で地方に行っていることが多い。番組収録。雑誌の撮影。グラビアからタレント・女優にシフトしていく23歳は、スケジュールが加速度的に埋まっていく。俺の映像制作の仕事も、春は繁忙期だ。

 会えるのは、2ヶ月に3日か4日。多い月で、そのくらい。

 少ない。でも——じゃあ何ができる、と訊かれたら、答えがない。芸能人と付き合うとはそういうことだと、最初からわかっていた。わかっていたし、咲耶が嫌いになったわけでもない。ただ——一人の夜が、積もっていく。雪みたいに。音もなく。気づいたときには、膝まで埋まっている。

 ビールを飲んだ。喉が鳴った。

 もう1本いくか、と思ったところで、スマホが鳴った。咲耶かと思って画面を見た。

 ——違った。仕事の相手だった。明日の打ち合わせの確認。「10時で大丈夫ですか」。大丈夫ですと返して、スマホをテーブルに置いた。

 あの一瞬——「咲耶かも」と思った一瞬の、胸の上がり方を、俺は覚えている。すぐに落ちた。その落差も、覚えている。

 凛と再会したのは、5月の半ばだった。

 渋谷のポスプロスタジオで編集作業を終えて、外に出たのが21時過ぎ。飯を食っていなかった。近くの居酒屋に入ろうとして——カウンターの端に、見覚えのある後ろ姿があった。

 ショートボブの黒髪。すっと伸びた背筋。狭いカウンターに肘をついて、一人でハイボールを飲んでいる。

 7年ぶりだった。

「——凛?」

 声をかけた。振り向いた女の顔は——7年前と、ほとんど変わっていなかった。

 水島凛。35歳。フリーランスのスタイリスト。俺の5歳下。付き合っていたのは、俺が28から33の頃だ。5年間。

「……は? 大翔?」

 凛の目が、一瞬だけ見開かれた。すぐに戻った。感情の振れ幅が小さい女だった。昔から。

「隣、いい?」

「いいけど。なんでここにいんの」

「近くで編集してた。飯食ってない」

「ふうん」

 隣に座った。生ビールを頼んだ。凛はハイボールの氷をからからと回していた。

 7年。その間、連絡は取っていなかった。SNSで互いの名前を見かけることはあったかもしれない。でも、わざわざメッセージを送ることはなかった。別れ方が——そういう別れ方だった。

「仕事?」と俺が訊いた。

「うん。表参道で撮影。終わって一杯引っかけてから帰ろうと思って」

「一人で?」

「一人で飲んじゃ悪い?」

「悪くない」

「でしょ」

 凛はそう言って、ハイボールを飲んだ。氷が減っていた。2杯目か3杯目だろう。頬がほんの少しだけ赤い。

 生ビールが来た。枝豆を頼んだ。凛が「私も」と言った。焼き鳥の盛り合わせも追加した。

「——変わんないね」と凛が言った。

「そうか?」

「体は変わんない。顔は——ちょっと老けた」

「40だからな」

「40か。そうだよね」

 凛は氷を噛んだ。ばりっ、と音がした。この癖も変わっていない。

「凛は変わんないな」

「そう?」

「髪型同じだし」

「楽なんだよ、これが。スタイリストが自分の服に時間かけてらんないでしょ。ま、髪は服じゃないけど、おんなじようなもんよ」

 焼き鳥が来た。凛はねぎまから手を伸ばした。俺はつくねを取った。昔も——凛はねぎまが好きだった。覚えている自分に、少し驚いた。

「今、誰かいんの?」と凛が訊いた。

 ストレートだった。昔からそうだ。回りくどいことを嫌う女だった。

「——いる」

「ふうん」

「凛は?」

「いない」

「そうか」

「そうだよ。35で独身フリーランス。世間的にはなかなかの地獄でしょ」

 凛はそう言って、ふっ、と鼻で笑った。声は出さない。口角だけが少し上がる。この笑い方を——俺は好きだった。

「地獄には見えないけど」

「見た目の話じゃないの。中身の話」

「中身も」

「嘘つき」

 凛はそう言って、新しいハイボールを頼んだ。

 会話は——軽かった。7年のブランクを、凛は1杯のハイボールで埋めてしまう。昔からそうだ。凛といると空気が乾いている。湿気がない。言葉が短くて、沈黙に意味を持たせない。だから——楽だ。

 2時間ほど飲んだ。

 仕事の話をした。凛はフリーになってから雑誌の仕事が増えたらしい。映画の衣装にも関わり始めていると言った。俺は最近の映像制作の案件の話をした。大手メーカーのCM。ドキュメンタリーの短編。地味だが食えている。

 咲耶の話は——しなかった。凛も訊かなかった。「誰かいる」と言っただけで、凛はそれ以上踏み込まなかった。

 会計を済ませて、外に出た。5月の夜風は4月より少し暖かかった。凛はスニーカーを履いていた。165センチ。俺の肩くらいの高さ。筋肉質寄りの細身の体。華奢ではない。芯がある体つき。

「じゃ」と凛が言った。

「じゃ」と俺も言った。

 凛が歩き出した。3歩くらい進んで、振り返った。

「連絡先、変えてないでしょ」

「変えてない」

「じゃあ、まだ残ってる」

 それだけ言って、凛は歩いていった。手は振らなかった。

 翌日、凛からメッセージが来た。

『昨日はどうも。焼き鳥うまかった』

 短い。句読点がない。凛らしかった。

『こちらこそ。また行こう』

『いいよ』

 それだけだった。でも——「それだけ」が、続いた。

 週に1回か2回、メッセージが来るようになった。内容はたいしたことじゃない。仕事の愚痴。飯の写真。『渋谷にいるけど暇?』。そういう短いやり取りが、5月の後半から6月にかけて、少しずつ積み重なっていった。

 何度か飲んだ。同じ渋谷の居酒屋。カウンターの隣同士。凛は常にハイボールで、俺は生ビールから始めてハイボールに切り替える。2時間飲んで、外で「じゃ」と言って、別れる。それだけだ。

 体には、触れていない。

 凛とは5年付き合った。体のことは——知っている。でも7年経って再会した凛は、「元カノ」という括りの外にいた。友人とも違う。相談相手——という言葉が一番近いかもしれない。

 6月のある夜、3回目に飲んだとき、凛が訊いた。

「彼女と、うまくいってんの」

 俺はビールのグラスを見た。泡が消えかけていた。

「——わかんない」

「わかんない、ね」

「会えない。物理的に」

「遠距離?」

「……に近い。東京にはいるけど、スケジュールが合わない」

「ふうん」

 凛は枝豆の殻を皿に落とした。ぱらっ、と乾いた音がした。

「寂しいじゃん、それ」

「まあ——そうだな」

「で、寂しいからここにいるわけでしょ」

「——」

「別にいいけど。私だって暇だから飲んでんだし」

 凛はそう言って、ふっ、と笑った。鼻で。声は出さない。

 否定しなかった。否定できなかった。凛の言葉は——いつも、的確すぎて逃げ場がない。

「寂しいから飲んでるっていうのは、半分は合ってる」と俺は言った。「もう半分は、凛と飲むのが楽だから」

「それはないわ」

「なんでだよ」

「元カノと飲むのが楽って、それ一番ダメなやつでしょ」

「ダメか」

「ダメに決まってんじゃん。新しい出会いがないから古い引き出し開けてるだけ」

 的確だった。

 でも——凛自身も、古い引き出しを開けに来ている。それを指摘する気はなかった。凛もわかっている。わかった上で言っている。

 凛が不意に、カウンターの端に置いてあった俺のスマホに目をやった。画面に通知が光っていた。名前が出ている。——伏せ忘れた。

「……咲耶、って」と凛が言った。

 心臓が、一拍だけ跳ねた。

「スタイリストなめんなよ。芸能関係の名前は大体入ってるの」

 凛はハイボールを傾けた。

「ドラマ出てるでしょ。深夜の。あの子?」

 俺は答えなかった。凛はそれを答えだと受け取った。

「——17歳下じゃん」

「……そうだな」

「すごいね」

「何が」

「いや、別に。大翔らしいなって」

 凛はハイボールを飲み干した。グラスを置いた。氷が鳴った。

「芸能人と付き合うの、しんどいよ」

「わかってる」

「わかってて続けてんなら、いいんじゃない」

 それで——その話は終わった。凛はそれ以上何も訊かなかった。咲耶の容姿についても、どこで出会ったかについても、どんなセックスをしているかについても。凛の興味は——たぶん、そこにはなかった。俺が今どういう状態にあるか。それだけを確認して、引いた。

 帰りのタクシーの中で——俺は考えていた。

 凛と別れた理由を。

 7年前。俺が33で、凛が28のとき。付き合って5年が経っていた。結婚の話が——出始めていた。俺のほうから。子供の話を、何気なく振った。「いつかは」くらいの軽さで。

 凛が——翌日、切り出した。

「私、子供できない体なの」

 そう言った。短く。凛らしく。

 不妊体質。検査で言われた。可能性はゼロではないが、自然妊娠はかなり難しい。

 俺は——「それでもいい」と言えなかった。すぐには。考える時間がほしいと言った。凛は「いいよ」と言った。1週間後、凛のほうから「別れよう」と言った。

「待ってる間に答え出たでしょ。考える時間がほしいってことは、迷ってるってことだから。迷うくらいなら、やめたほうがいい」

 凛は——正しかった。

 あのときの俺は、子供がほしかった。漠然と。具体的にではなく。でも「子供のいる未来」を想像していた俺にとって、凛の告白は——地面が抜ける感覚だった。

 今になってわかる。凛が切り出したのは——俺が迷うことを見越していたからだ。俺に「それでもいい」と言わせて、あとから後悔させるくらいなら、自分から断ち切る。そういう女だった。昔から。

 7年経って——俺は40で、子供はいない。咲耶との間にも。子供がほしいという感覚は、いつの間にか薄くなっていた。あのとき凛と別れたことが正しかったのか——今でもわからない。わからないまま、7年が過ぎた。

 府中の部屋に着いた。タクシーを降りて、マンションのエントランスを通った。

 静寂。

 スマホを見た。咲耶からのメッセージは——なかった。

 環と出会ったのは、7月の頭だった。

 凛に誘われて、業界の飲み会に顔を出した。表参道の、少し洒落たダイニングバー。スタイリスト、ヘアメイク、カメラマン、映像関係——凛の人脈で集まった15人ほどの緩い会だった。

 俺は端のほうでビールを飲んでいた。知り合いのカメラマンと機材の話をしていた。

「あ——大翔さんですよね?」

 声をかけられた。振り向いたら——女が立っていた。

 ウェーブのかかったロングヘア。丸顔で、頬がふっくらしている。大きくて丸い目。黒目がち。唇が厚い——下唇が特にぽってりとしていて、それだけで妙に色っぽかった。肌は白くて、もちっとした質感が見てわかる。ワンピースの胸元が——大きく開いていた。豊かな胸が布地を押し上げている。Eカップ——たぶん、それくらい。26か27か。若い。

「凛さんから聞いてます。映像の仕事されてるって」

「——ああ、うん。そう」

「え〜、すごい。映像ってなんか、かっこいいですよね。あ、私、朝比奈環(たまき)っていいます。環でいいです」

 にこっ、と笑った。歯が白い。無防備な笑顔だった。大きな丸い目で——上目遣いに俺を見上げる。

「え〜、大翔さんって背、高いですね〜。何センチですか?」

「185」

「まじ〜? 185ってやばくないですか? え、モデルさんじゃなくて?」

 おバカっぽかった。「え〜」と「まじ〜」の間に情報がない。声が甘い。話し方がふわふわしている。グラスを両手で持つ仕草。男の懐に入るのがうまいタイプだ、と——俺の中の経験値がそう判定した。

「環は何やってるの」

「あ、私はタレントやってます。元グラビアで。凛さんとは撮影の現場でたまにご一緒してて」

「そうなんだ」

「はい〜。凛さんめっちゃかっこいいですよね。あの人、ほんと仕事できるし。あ、大翔さん、ビールなくなってますよ。取ってきますね」

 そう言って、環は小走りでカウンターに向かった。ウェーブのロングヘアが揺れた。ヒールの脚が細い。ワンピースの裾が——太ももの途中までしかない。

 俺は——環の背中を見ていた。

 そのとき、凛が隣に来た。

「あの子、どう?」

「は?」

「環。可愛いでしょ」

「……まあ」

「紹介しようと思って呼んだの。大翔にちょうどいいかなって」

「なんだよそれ」

「いや、暗い顔して飲んでるからさ。ああいう明るい子といたほうが気が紛れるでしょ」

「余計なお世話だ」

「余計なお世話する気分なの。久しぶりに」

 凛はそう言って、ふっ、と鼻で笑った。ハイボールのグラスを傾けた。

「ちなみにあの子、26。バカっぽく見えるけど、わりと頭いいよ。現場の段取りとか、すごくちゃんとしてる」

「へえ」

「あと——男慣れはしてる。大翔くらいの歳の男と話すの、たぶん平気。委縮しないタイプ」

「凛」

「何」

「俺に女を紹介して、どうすんだ」

「どうもしない。友達増やしなよってだけ」

 凛は——それ以上何も言わなかった。グラスの氷を噛んで、ばりっ、と音を立てて、別のグループのほうに歩いていった。

 環がビールを持って戻ってきた。

「はい、どうぞ〜」

「ありがとう」

 グラスを受け取った。環の指が、俺の指に触れた。——偶然かもしれない。偶然じゃないかもしれない。

「ね、大翔さん。映像のお仕事って、具体的にどんなことするんですか?」

「CMとか、プロモーションビデオとか。あとドキュメンタリーの短編」

「え〜、ドキュメンタリー? まじ? なんか、NHKとかに出るやつ?」

「そこまでじゃないけど。配信系が多いかな」

「へ〜。すごいなあ。私、映像のこと全然わかんないんですよ。カメラとか、でっかいやつ使うんですか?」

「まあ、それなりに」

「それなりに、か。大翔さん、そういう言い方するタイプですね」

 ——その瞬間、環の目が変わった。

 「え〜」や「まじ〜」を連発していた甘い表情の奥で——一瞬だけ、別の目が覗いた。観察している目。俺の反応を読んでいる目。賢い目。

 すぐに消えた。また「え〜、かっこいい〜」の顔に戻った。

 ——俺は、その一瞬を見逃さなかった。

 おバカっぽい。甘い。ふわふわしている。でも——あの目は、違う。芯がある。何かを計算している。自分を「そういうキャラ」に見せることで、相手の警戒を解いている。意図的に。

 26歳で、それができるのは——かなり頭がいい。

「環」

「はい?」

「タレント、何年やってるの」

「えっと〜、7年くらいですかね。大学の時にスカウトされて、グラビアやりながら通ってて。大学生だったから最初から大人の仕事もらえて、場数だけはけっこう踏んでます〜」

「大学は?」

「え、大学ですか? 普通のとこですよ〜。あ、でも心理学やってました。人のこと観察するの好きで」

 心理学。

 ——なるほど、と思った。あの一瞬の観察眼は、天性のものだけじゃない。学んでいる。人を見ることを、この女は学んでいる。

「面白い経歴だな」

「え〜、そうですか? よく言われます。変わってるねって」

 環はまた笑った。無邪気に。でも——俺にはもう、その笑顔がフィルターの向こう側に見えていた。

 飲み会は23時頃にお開きになった。環とは連絡先を交換した。凛が「したら?」と言ったからだ。環は「やった〜」と言って、スマホを出した。

 帰りのタクシーの中で——俺は考えていた。

 凛が環を紹介した意味。凛はバカじゃない。むしろ——俺が知っている女の中で、一番頭がいい。「友達増やしなよ」は建前だ。凛は——俺の寂しさを見抜いている。見抜いた上で、解決策を提示した。それが環だ。

 でも——凛が自分でその役を引き受けないのは、なぜか。

 わかっている。凛と俺の間には、過去がある。5年の交際と、不妊という理由での別れ。その上に新しい関係を積むことの——面倒さを、凛は知っている。だから——別の女を噛ませる。凛らしい。

 タクシーが首都高を降りて、府中に向かう。深夜の甲州街道は空いていた。

 スマホが鳴った。画面を見た。

 環からだった。

『今日はありがとうございました! 楽しかったです〜。また飲みましょう!』

 絵文字が3つ。ハートとキラキラとビールのジョッキ。26歳らしいメッセージだった。

 もう1件。凛から。

『環、気に入った?』

 絵文字はない。句読点もない。凛らしかった。

 俺はどちらにも返信しなかった。

 部屋に着いた。靴を脱いだ。照明をつけた。

 誰もいない。

 ソファに座って、ビールを開けた。ぷしゅ、と音がした。また——この音が、今日最初の「自分だけの音」だった。

 スマホを見た。

 咲耶からのメッセージは——『明日撮影だから早めに寝るね。おやすみ』。

 21時に届いていた。飲み会の最中で、気づかなかった。

 『おやすみ』と返した。既読はつかなかった。もう寝ているんだろう。23歳は明日も早い。撮影。現場。カメラの前。俺の知らない場所で、俺の知らない顔をして、俺の知らない男たちと——仕事をしている。

 ビールを飲んだ。喉が鳴った。

 凛のメッセージを開いた。

『気に入った、ってわけじゃない』

 送信した。3秒で既読がついた。凛はまだ起きていた。

『ふうん』

 それだけ返ってきた。

 環のメッセージを開いた。

『こちらこそ。楽しかった』

 送信した。こちらも——すぐに既読がついた。

『え〜、嬉しい! 大翔さん、今度凛さんも一緒にごはん行きません?』

『いいよ』

『やった〜! 来週とかどうですか?』

 来週。

 来週——咲耶とは会えない。来月も、たぶん。

『いいよ』

 そう打って、送った。

 ソファに背中を預けた。天井を見た。白い天井。染みひとつない。

 4年前の夜を思い出した。咲耶の顎に触れた瞬間の——指の腹の記憶。19歳の肌。吸い付くような滑らかさ。あの感触を、右手はまだ覚えている。

 でも——最後に触れたのは、いつだったか。

 2ヶ月前。3ヶ月前。もう——曖昧だ。記憶が曖昧になることの怖さを、俺はまだ怖がれている。怖がれているうちは——大丈夫だと思いたい。

 スマホの画面が暗くなった。

 凛と、環。

 2つの名前が、この春から夏にかけて——俺の夜に入り込んできた。咲耶のいない夜に。「おやすみ」の一言で閉じてしまう夜に。

 別に——何かが起きたわけじゃない。飲んだだけだ。話しただけだ。連絡先を交換しただけだ。

 でも——「だけ」が積み重なることの意味を、40歳の男は知っている。

 知っていて——止めなかった。

 ビールの缶を置いた。空だった。

 部屋が、静かだった。

三 咲耶

 7月の終わり。

 クランクアップまで、あと3日になっていた。

 私の出番はもう終わっていた。最後のシーンを撮り終えた日、監督が「お疲れさま。良かったよ」と言ってくれた。短い言葉だった。でもその短さが、嘘じゃないとわかった。

 スタジオを出る時、蓮さんが追いかけてきた。

「咲耶さん、クランクアップおめでとうございます」

「ありがとうございます。蓮さんはまだあと3日ですよね」

「そう。主演は最後まで残るんですよ。——あ、ちょっと相談なんですけど」

 蓮さんはスマホを出した。台本のPDFが開いている。

「最終話の、ここ。親友が電話越しに泣くシーンがあるじゃないですか。俺、あのシーンの受けの芝居がまだ掴めてなくて。咲耶さんの声で一回合わせたいんですけど——うち来てやりません? カフェだと声出せないし」

 自然だった。

 台本の話。芝居の話。3ヶ月間ずっとそうだったように。

 蓮さんの部屋——その言葉が、一瞬だけ引っかかった。でもすぐに流れていった。だって、台本の読み合わせなのだ。カフェでは声が出せない。それは本当のことだ。

「いいですよ。いつがいいですか」

「明後日の夜とか——撮影終わってからで」

「はい」

 そう答えた。

 答えてから、大翔に最後にメッセージを送ったのがいつだったか、思い出そうとした。——3日前だ。『おやすみ』。それだけ。返事は翌朝に来た。『おやすみ。体気をつけろよ』。いつもと同じだった。

 蓮さんの部屋に行く。

 それだけのことだ。

 蓮さんのマンションは、代々木のほうにあった。

 築浅の、小ぎれいな建物。エントランスにオートロックがあって、部屋番号を押すと蓮さんの声がした。「どうぞ、開けます」。短い電子音の後に、ガラスの扉が滑った。

 エレベーターで5階に上がった。廊下を歩く。自分の靴音が妙に大きく聞こえた。

 ドアの前に立った。

 ——わかっている。

 この先に何があるか、わからないほど子供じゃない。23歳だ。芸能界で8年やってきた。男の人が女を部屋に呼ぶ意味くらい、知っている。知っていて——断らなかったことも、ある。

 でも——知っているのと、そうなると決まっているのは、違う。蓮さんはこれまで一度も私に触れていない。芝居の話しかしていない。だから——たぶん、大丈夫だ。

 たぶん。

 インターホンを押した。

「あ、どうぞ。散らかってますけど」

 蓮さんがドアを開けた。グレーのスウェットにTシャツ。髪を下ろしている。現場のときとは違う——少しだけ、近い感じがした。

 部屋は1LDKで、思ったよりきれいだった。散らかっていると言ったけれど、本棚が整然としていて、テーブルの上に台本が2冊と、ペットボトルのお茶が並んでいた。

「座ってください。お茶でいいですか?」

「はい」

 ソファに座った。蓮さんがグラスにお茶を注いで渡してくれた。指が触れた——のは、偶然だと思う。

 台本を開いた。

「じゃ、35ページから」

 読み合わせが始まった。

 蓮さんの声は、やっぱり密度が違った。1メートルもない距離で、蓮さんの台詞がまっすぐ飛んでくる。私も返す。返すと、また返ってくる。ソファの上の小さな舞台。

 30分くらい、本当に読み合わせをしていた。

 蓮さんのアドバイスは的確だった。「ここ、泣く前に一拍置いたほうがいい。涙の予感で引っ張って、声が裏返るところで落とす」。具体的で、曖昧さがない。

 台本を閉じた。

「——ありがとうございます。すごく参考になりました」

「こちらこそ。やっぱり咲耶さんの声で聞くと、全然違いますね」

 蓮さんが笑った。穏やかな笑顔だった。

 帰ろうと思った。帰るべきだった。台本の読み合わせは終わった。ここにいる理由はもうない。

「——もう1杯、飲んでいきません?」

 蓮さんがそう言った。

 キッチンに立って、冷蔵庫からワインの瓶を出した。赤ワイン。安くはなさそうな瓶だった。

「お酒、飲めますよね?」

「……少しなら」

 グラスが2つ。赤い液体が注がれた。

 ソファに戻った蓮さんとの距離が、さっきより近かった。——気のせいかもしれない。でも、さっきは台本1冊分のスペースがあった。今はグラス1つ分しかない。

 芝居の話をした。もうすぐ終わるドラマの話。次の仕事の話。蓮さんが秋に舞台に出ること。私がバラエティの仕事を増やそうと思っていること。

 ワインが半分なくなった頃——

「咲耶さんは、なんでグラビアから芝居に来たんですか」

 前にも聞かれたことのある質問だった。居酒屋で。あの時は——「怖いのが楽しい」と答えた。

「前に言ったのと、同じです。怖いから——」

「怖いから、好き?」

「……うん」

 敬語が崩れた。ワインのせいだ。蓮さんは気にしていないようだった。

「咲耶さんは、怖いもの好きなんですね」

「そうかも」

「俺もです」

 蓮さんがグラスを置いた。

 目が合った。

 蓮さんの目は——いつもと同じだった。涼しくて、穏やかで、まっすぐこちらを見ている。何も変わっていない。なのに——空気が、変わった。

 蓮さんの指が、私の髪に触れた。

 耳のそばの一束を、すくうように。

「——ずっと、気になってたんですけど」

 声が低くなった。半音だけ。

「髪、きれいですね」

 心臓が鳴った。

 逃げられる。今なら逃げられる。「ありがとうございます」と笑って、立ち上がって、靴を履いて、ドアを開ければいい。それで終わる。蓮さんは追いかけてこない。追いかけてくるような人じゃない。——そういう空気を作らないのが、この人のやり方だ。

「……ダメですか?」

 蓮さんが訊いた。

 小さな声だった。触れた指はそのまま、私の髪に残っている。耳のすぐ横。指先の体温が、うなじに近い。

 ダメだ。ダメに決まっている。私には大翔がいる。4年付き合っている。初めて抱かれた人。あの匂い。あの体温。あの大きな手——

 でも。

 あの大きな手は、2ヶ月以上、私に触れていない。

 声は聞こえても、匂いがしない。顔は見えても、温度がない。画面の向こうにいる大翔は、薄い。——ここにいる蓮さんは、近い。

「……ダメじゃ、ないです」

 自分の声が、遠くから聞こえた。

 蓮さんの唇が、私の唇に触れた。

 キスは、やわらかかった。ワインの渋みが、蓮さんの唇から移った。

 押しつけるのでもなく、奪うのでもなく——そっと触れて、待った。私が応じるのを確認してから、もう一度。唇の上を、蓮さんの唇がゆっくり滑る。舌は、まだ来ない。

 大翔のキスとは、全然違った。

 大翔は——最初から深い。唇が合わさった瞬間に舌が入ってくる。口の中を探るように、奥まで。息ができなくなるくらい。体ごと押し倒されるような圧。

 蓮さんのキスは、浅い。軽い。でも——的確だった。唇の端を軽く噛まれて、ひっ、と小さく声が漏れた。その反応を見て、蓮さんが同じ場所をもう一度噛んだ。少しだけ強く。

 学習している、と思った。私の体のどこが反応するかを、確認している。

 蓮さんの手が、肩に触れた。そこから鎖骨をなぞって、首筋に上がる。指の腹がうなじに触れた瞬間——背筋がぞくっと震えた。

「——ここ、弱いんですね」

 蓮さんが小さく笑った。声に優越感はなかった。ただ確認しただけ、という声だった。

 ソファから立ち上がった。蓮さんに手を引かれて——寝室に入った。

 ベッドの上に座った。蓮さんが目の前に立っている。175センチ。大翔よりも10センチ低い。でも——見上げる角度は、これくらいのほうが自然だった。大翔を見上げるときの角度は、首が痛くなるくらい急だ。

 蓮さんがTシャツを脱いだ。

 細マッチョだった。大翔のような圧倒的な厚みはない。でも——きれいな体だった。腹筋が割れていて、胸板は薄いけれど形が整っている。若い体。25歳の、引き締まった体。

 私のトップスに手がかかった。蓮さんが裾を持ち上げる。腕を上げた。頭の上を布地が通過して——脱げた。

 ブラが露出した。

 蓮さんの目が——一瞬、止まった。

 知っている。この反応を、知っている。グラビアの撮影で何百回も見た。カメラマンの目。スタイリストの目。スタッフの目。私の胸を見た瞬間、一瞬だけ言葉が途切れる。誰もが。

 蓮さんも、例外じゃなかった。

「——すごいですね」

 声が、微かにかすれていた。

「……よく言われます」

 恥ずかしかった。——経験なら、ある。大翔以外の男の前で裸になったことも、ある。でもそれは——仕事の延長みたいなもので、恥ずかしいとか、そういう感情が入る隙がなかった。蓮さんは違う。3ヶ月一緒に芝居をしてきた人だ。知らない男じゃない。だからこそ——恥ずかしい。

 蓮さんがブラのホックに手をかけた。背中に回った指が、慣れた動作でホックを外す。——うまい。大翔とは別の意味で慣れている。大翔はどちらかというと力任せに外す。蓮さんは、触れたかどうかもわからないくらい軽く。

 ブラが外れた。

 胸が、零れた。

 支えを失った乳房が、わずかに揺れて——でもほとんど形が変わらない。張りが強すぎて、ブラがなくても重力に逆らっている。

 蓮さんの目が、また止まった。今度は——さっきより長く。

「……触っていいですか」

 訊くんだ、と思った。大翔は訊かない。触りたいから触る。奪うように。

「……はい」

 蓮さんの手が、右の乳房に触れた。

 下から持ち上げるように。指の腹が、乳房の丸みに沿って滑る。——上手だった。力加減が、最初から適切だった。強すぎず、弱すぎず。形を確かめるように、ゆっくりと。

「すごい張りですね。硬い——でもやわらかい。不思議な感じ」

 親指が乳首をかすめた。ん、と声が漏れた。

 蓮さんが乳首を摘んだ。人差し指と親指で軽く挟んで、転がすように。

「あ——っ」

 甲高い声が出た。——感度が高すぎる。大翔に何度も触られてきた場所だ。体が覚えている。乳首を触られると、勝手に反応する。

「気持ちいい?」

「……うん」

「ここ、すごく感じるんですね。——もっと触っていいですか」

 ——ちゃんと訊いてくれるんだ。

 大翔は訊かない。大翔は、体ごとぶつかってくる。獣みたいに。理性なんてもう残っていなくて、ただ——本能で、私を求める。

 蓮さんは違う。確認する。反応を見る。次にどうするかを、私の体に訊く。

 優しい。丁寧。完璧に——丁寧。

 蓮さんが私をベッドに押し倒した。——押し倒した、というより、導いた。肩にそっと手を添えて、仰向けにさせた。枕に頭が着いた。

 蓮さんが上から覗き込む。175センチ。大翔に比べれば圧迫感は少ない。でも——私の149センチからすれば、十分に大きい。

 首筋にキスが落ちた。鎖骨を舐められた。唾液の湿った感触が、ゆっくりと胸に向かって降りていく。

 左の乳首を、舌先で舐められた。

「ひっ——」

 体が跳ねた。蓮さんの舌が、乳首の周囲をくるりと一周して——先端を吸い上げた。空いた左手が右の乳房に伸びて、親指が乳首を転がしている。両方同時に。

「あ、あっ——ん——」

 声が止まらない。

 大翔のときと同じだ。乳首を触られると、もう自分のものじゃなくなる。声が勝手に出る。体が勝手に反応する。

 蓮さんの指が下がっていった。腹部を通過して、ジーンズのボタンに触れた。

「脱がしますね」

 また、報告。

 ボタンが外れて、ファスナーが下りて、ジーンズが脚を滑り落ちていった。下着だけになった。——白い、何の変哲もない下着。今日こうなるとは思っていなかった。思っていなかったから、勝負下着じゃない。

 蓮さんは何も言わなかった。下着の上から、指を滑らせた。

 布地越しに、指の腹が割れ目をなぞる。

「——っ」

 濡れている。自分でわかる。——いつから。キスの時から? 胸を触られた時から? わからない。わかっているのは、もう戻れないということだけ。

 下着がずらされた。指が直接、触れた。

「——すごく濡れてますね」

 蓮さんの声が、耳元で囁いた。

 指が1本、中に入った。

 くちゅ、と音がした。

「ん——っ」

 探るように。壁をなぞるように。奥に進んで——ある場所に、指先が触れた。

「ここ?」

 とん、と押された。

「——っ、あ、あっ——」

 Gスポット。正確だった。迷わなかった。一発で見つけた。蓮さんは——何人の女の体を知っているんだろう。そう思うくらい、最初から知っているかのように。

 指がリズミカルに動き始めた。とん、とん、とん。同じ場所を、同じ力で、同じ角度で。機械みたいに正確に。

「あっ、あっ、あっ——やっ——」

 もう片方の手が、クリトリスに触れた。くるくると回すように撫でる。中と外、同時に。

「気持ちいい?」

「——っ、うん——気持ち、い——」

「いい声ですね、咲耶さん」

 褒めるのがうまい人だった。ここでも。芝居のアドバイスと同じトーンで、私の体を褒める。

 指が加速した。とん、とん、とん、とん——もう一本増えた。2本の指が中を押し広げて、深く、正確に——

「だめ——もう——っ」

「もうイきそう?」

「——っ!」

 体が弓なりに反った。足の指が丸まった。目の前に白い光が散って——

 イった。

 蓮さんの指を入れたまま、膣が痙攣した。きゅう、きゅう、と。余韻が波のように広がって、ゆっくりと引いていく。

「——すごい。締まりますね」

 蓮さんが指を抜いた。濡れた指を、私の太腿の内側で拭いた。

 息が荒い。天井が揺れている。——まだ前戯だ。まだ、入ってすらいない。

 蓮さんがサイドテーブルの引き出しを開けた。個包装のパッケージを1つ取り出す。0.01ミリ——いちばん薄いやつだ。こういうところに手を抜かない人なんだ、と思った。

 蓮さんのスウェットが脱げた。ボクサーブリーフの上から——勃起しているのが見えた。下着が下がった。

 大翔ほど大きくはなかった。

 当たり前だ。大翔が異常なのだ。19センチ、太さ4.8センチ。あんなものは普通じゃない。蓮さんのは——普通。普通の大きさ。普通の太さ。でも形が整っていて、先端がうっすらと赤みを帯びている。

 蓮さんがコンドームを装着した。慣れた手つきだった。0.01ミリ——こんなに薄いのに、膜1枚の隔たりがある。——大翔とは、もうほとんど使っていない。生の感触に慣れた体が、その薄い壁を敏感に拾った。

「——入れますね」

 また、報告。

 脚を開いた。蓮さんが間に入った。先端が入り口に触れた。

 ぬるりと——入ってきた。

「あ——っ」

 異物感は——なかった。前戯で体は十分に開いていた。蓮さんのサイズなら、痛みもない。するりと奥に進んで——根元まで。

 大翔の時とは、全然違う。大翔は——入った瞬間に、体が割れるかと思う。太さに膣壁が押し広げられて、奥まで突かれると子宮口に当たる。全部が、ぎりぎり。

 蓮さんは——ちょうどいい。痛くない。窮屈じゃない。体が自然に受け入れている。

「——あ、もう——」

 入った瞬間に、快感が爆発した。

 前戯で十分に高まっていた体が、挿入の刺激で一気に沸点を超えた。膣が蓮さんのペニスを締め上げて——

「もう——イっ——あ、ああっ——!」

 2回目のオーガズム。入れた瞬間に。

 蓮さんは止まらなかった。私がイっている最中に、ゆっくりとピストンを始めた。浅く、短く。痙攣している膣壁を、丁寧になぞるように。

「いい子ですね。もう1回イけますよ」

 ——なに、それ。

 大翔は絶対にそんなことを言わない。大翔は言葉を失う。獣みたいに唸るだけで、人間の言葉が出てこなくなる。

 蓮さんは——イかせている最中に、冷静に喋っている。

 ピストンのリズムが変わった。さっきまでの浅く短いストロークから、ゆっくりと深いストロークに。引いて——奥まで押し込む。引いて——押し込む。

「あ——ん、っ——あ——」

 気持ちいい。——気持ちいいのは間違いない。蓮さんのペニスが正確に中をなぞっている。角度を少しずつ変えながら、私の体のどこが一番反応するかを探っている。

 見つけた。

 ある角度でペニスが入った瞬間——体の奥で、ぐん、と何かが引っ張られた。

「——ここですね」

 蓮さんがその角度を固定した。同じ深さ、同じ角度、同じ速度で——繰り返し。崩れない。

「あっ、あっ、あっ——だめ——そこ——っ」

「ここ好きなんですね。わかりました」

 わかりました、って——そんな簡単に見つけないでよ。なんでそんなに——冷静でいられるの。

 大翔は冷静じゃない。大翔はとっくに壊れている。腰が勝手に動いて、目がぎらぎらしていて、呼吸が獣みたいに荒くなっていて——その全部が、怖くて、気持ちよかった。

 蓮さんの呼吸は——少しだけ乱れているけれど、基本的に整っている。

 ペースが変わった。速度が落ちた。

「——えっ」

 イきそうだったのに。もう少しだったのに。——止まった。

「もうちょっと、焦らしましょうか」

 蓮さんが笑った。

 ゆっくりと腰を動かす。浅く。触れるか触れないかの深さで。奥に届かない。さっきの角度に入らない。

「やだ——もっと——」

「もっと?」

「奥——さっきのところ——」

「ここ?」

 一瞬だけ深く突いて——すぐに引く。

「——っ! そこ——!」

「もうちょっと我慢してください」

 焦らされている。完全に蓮さんのペースに乗せられている。自分のタイミングでイけない。蓮さんが許可しなければ、イけない。——支配されたがる私には、それがたまらなく——

 ——たまらなく、何?

 気持ちいい、の?

 違う。

 違う。これは——大翔にされたいことだ。大翔に焦らされたい。大翔の手で、大翔の体で。大翔の——匂いの中で。

 蓮さんの匂いが鼻に触れた。

 香水——シダーウッドか何かの、清潔で計算された匂い。シャワーの後の肌。整えられた体臭。悪い匂いじゃない。むしろ良い匂いだ。

 でも——違う。

 大翔の匂いは、もっと重い。汗と石鹸が混ざった、低くて厚い匂い。首筋に顔を埋めたとき、鼻の奥に貼りつくような——あの匂い。あの匂いの中で抱かれると、体が溶ける。意識が飛ぶ。

 蓮さんの匂いでは——溶けない。

 ペースが上がった。

 蓮さんが本気になった。——そう見えた。腰のストロークが深くなった。速度が上がった。さっきの角度——私が一番感じる角度に、正確に、繰り返し。

「あっ——あっ——あっ、あっ、あっ——!」

 声がリズムに合わせて漏れる。止められない。体が蓮さんの動きに完全に同調している。

「——イきそう?」

「うん——もう——だめ——っ」

「一緒にイきましょう」

 蓮さんの腰がさらに加速した。ぱん、ぱん、ぱん——肉がぶつかる音が部屋に響く。

「あ——あああっ——イく——イっ——」

 3回目のオーガズムが、体の奥から突き上げてきた。

 頭の中が白くなった。目の前が溶けた。体が痙攣して——

 ——同時に。

 蓮さんが引き抜いた。

 急に、中が空っぽになった。

 目を開けた。蓮さんが私のお腹の上にまたがっていた。コンドームを外している。右手でペニスを握って——

 びゅっ。

 お腹に、熱い液体が飛んだ。

 1射目。腹部。——驚かなかった。お腹なら——

 びゅっ。

 2射目。左の胸に。白い液体が、左の乳房の上に着弾した。

「——っ」

 体が硬直した。目を閉じたい。でも——閉じる前に。

 びゅっ。

 3射目。右の胸。——白い液体が、両方の胸の上で光っている。

 びゅっ。

 4射目。鎖骨。首に近い。——目を閉じた。体が固まっている。動けない。

 びゅっ。

 5射目。顔。

 左の頬から鼻梁を横切って、右のこめかみまで。熱い線が走った。

 ——匂いが、鼻に入った。

 蓮さんの精液の匂い。

 薄い。——大翔のあの、部屋中に充満するような、粘りつくような匂いとは比べものにならないくらい、薄い。量は多い。25歳の、若い精液。飛距離も勢いもある。でも——匂いが、薄い。

「——きれいだな」

 蓮さんの声が聞こえた。目を開けた。

 蓮さんが——私の顔を見下ろしていた。

 その目は——さっきまでの穏やかな目と、違っていた。何かを査定するような。作品の仕上がりを確かめるような。薄く笑っている。満足げに。

 一瞬で消えた。いつもの優しい目に戻った。——今の、何だったんだろう。気のせいだろうか。気のせいだと、思いたかった。

「——大丈夫ですか? ティッシュ取りますね」

 ティッシュで顔を拭かれた。胸を拭かれた。お腹を拭かれた。丁寧に。優しく。

 蓮さんがベッドに横になった。私の隣に。腕を伸ばして、肩を抱いた。

「気持ちよかった?」

「……うん」

 嘘じゃなかった。3回イった。入れた瞬間にイった。同時にもイった。完璧なセックスだった。——完璧だった。

 蓮さんの胸に頭を預けた。心臓の音が聞こえる。規則正しい。もう落ち着いている。

「咲耶さん、すごく感じやすいんですね。——いい体してる」

「……そういうこと言わないでください」

「褒めてるんですよ」

 蓮さんが笑った。

 私も笑った。——笑えた。蓮さんの前では、笑える。軽い。重くない。罪悪感は——ある。あるけれど、今は遠い。大翔の顔が浮かんだけれど、ぼんやりとしている。輪郭がはっきりしない。

 蓮さんの部屋は、きれいな匂いがした。ルームフレグランスか何か。清潔で、計算された空間。

 ——大翔の部屋の匂いを思い出そうとした。

 思い出せなかった。

 最後にあの部屋にいたのは、いつだったか。2ヶ月前。もっと前かもしれない。大翔の部屋は——もっと雑然としている。ソファに脱ぎっぱなしのパーカー。テーブルの上のリモコン。冷蔵庫のビール。あの部屋に入ると、大翔の匂いがする。生活の匂いがする。——ここには、ない。

 30分くらい、そうしていた。蓮さんの腕の中で。

 蓮さんが言った。

「また——来てくれますか」

「……わかんない」

「わかんない、か」

 蓮さんが笑った。否定も肯定もしなかった。

 服を着た。蓮さんが玄関まで送ってくれた。

「今日は——ありがとうございました。読み合わせ」

「読み合わせ、ね」

 蓮さんが目を細めた。

「おやすみなさい。——気をつけて帰ってください」

「おやすみなさい」

 ドアが閉まった。

 廊下に出た。エレベーターのボタンを押した。

 待っている間に、スマホを見た。大翔からメッセージが来ていた。22時17分。

『明日仕事早いから先に寝るな。おやすみ』

 1時間前のメッセージだった。

 今は23時20分。蓮さんの部屋に3時間いた。読み合わせが30分。ワインが30分。——残りの2時間。

 エレベーターが来た。乗った。鏡に自分が映った。

 髪が少し乱れている。頬が赤い。首筋に——赤い痕はない。蓮さんは痕が残るようなことはしなかった。——計算している。全部、計算している。

 1階に着いた。エントランスを出た。夜風が顔に当たった。7月の、湿った風。

 タクシーを呼んだ。

 後部座席に座って、窓の外を見た。街灯が流れていく。

 ——完璧なセックスだった。

 3回イった。前戯は丁寧で、挿入は狂いがなく、私の体の反応を全部見て、全部応えてくれた。蓮さんは上手い。文句のつけようがない。

 なのに。

 体の奥に——何かが、足りない。

 大翔に抱かれた後は、体が壊れたみたいになる。立てない。歩けない。意識が朦朧として、全身が大翔の匂いに染まっていて、体の奥がまだ大翔の形をしている。——怖かった。いつも怖かった。でもその恐怖ごと、全部が——気持ちよかった。

 蓮さんに抱かれた後は——立てる。歩ける。タクシーに乗れる。スマホが見れる。頭がちゃんと動いている。

 壊されていない。

 完璧なのに——壊されていない。

 大翔のセックスは、全身を使った暴風雨だ。何もかもがめちゃくちゃになって、終わった後は焼け野原みたいに何も残らない。残るのは、大翔の匂いと、体の奥の余韻だけ。

 蓮さんのセックスは——美しい夕焼けだ。きれいで、完璧で、時間通りに始まって時間通りに終わる。何も壊されない。何も失われない。

 だから——物足りない。

 目隠しも、拘束も、道具も——大翔と試した全部が、体に刻まれている。蓮さんの丁寧で優しいセックスは、その刻印の上を滑っていくだけだ。

 仕事の相手では……、もちろん足りなかった。蓮さんでも、足りない。

 私が本当に求めているのは——壊されることだ。支配されることだ。獣みたいに貪られて、自分が自分じゃなくなるくらい、深いところまで——

 蓮さんには、それがない。

 タクシーが自分のマンションの前に停まった。降りた。オートロックを開けて、エレベーターに乗って、部屋に入った。

 靴を脱いだ。照明をつけた。

 シャワーを浴びた。

 お腹と胸に残ってる感じがした、蓮さんの精液を洗い流した。顔も洗った。頬に残っていた乾いた跡が、お湯で溶けていく気がした。

 全部、流れた。

 でも——蓮さんの匂いは、最初から体に残っていなかった。洗い流す前から。もう、消えていた。

 大翔の匂いは——抱かれた翌日でも、シャワーを浴びても、肌の奥に残る。鼻の奥に貼りついて離れない。あの重くて甘い、カルキみたいな——

 パジャマを着て、ベッドに入った。天井を見た。白い天井。

 大翔のメッセージを開いた。

『明日仕事早いから先に寝るな。おやすみ』

 既読をつけた。返事を打った。

『おやすみ。ごめんね、遅くなった』

 送信した。

 スマホを置いた。目を閉じた。

 また蓮さんの部屋に行くだろうか。

 ——行く気がする。

 完璧なのに物足りない。物足りないから、次こそはと思ってしまう。次はもっと——次は——

 でも「次」が来ても、蓮さんのセックスは変わらない。完璧なまま変わらない。永遠に——足りないまま。

 それでも行ってしまうのは——大翔に会えないからだ。大翔の体温がないからだ。大翔の匂いがないからだ。

 蓮さんは——大翔の代わりにはならない。

 なのに——体が、温もりを求めている。

 誰かのぬくもりで、この白い天井の夜を埋めたい。

 大翔の匂いが思い出せない夜は——蓮さんの香水でも、いい。——えっ?——

 いいと思ってしまう自分が——一番、怖かった。

四 大翔

 環から誘われたのは、7月の半ばだった。

『大翔さん、今週の土曜空いてます? 凛さんとごはん行こうって言ってたやつ〜!』

 絵文字が3つ。星とスマイルと食事のナイフフォーク。

 土曜。空いている。咲耶は撮影で——どこだったか。地方ロケだと言っていた。会えない。今月も、来月も、たぶん。

『いいよ。何時?』

『19時で! 場所は凛さんが決めるって〜。また連絡しますね!』

 木曜の夜、凛からメッセージが来た。

『土曜、私やっぱ仕事入った。二人で行ってきて』

 句読点がない。凛らしかった。

 ——そういうことか。

 最初から凛は来る気がなかったのかもしれない。「二人で行ってきて」。セッティングだけして、自分は消える。凛の得意技だった。昔から。

 断ろうかと思った。環と二人で飯を食う理由がない。——ないはずだ。でも、断るメッセージを打つ指が、止まった。

 土曜の夜。一人で部屋にいて、ビールを飲んで、テレビもつけずに天井を見る。それが嫌だった。それだけだ。

『了解。場所教えて』

 凛に返した。

『環に送っとく』

 それだけだった。

 恵比寿のイタリアン。

 凛が選んだ店は、カウンター8席の小さな店だった。壁がレンガで、照明が暗い。デートに使う店だ。——凛、やりやがったな、と思った。

 環が先に来ていた。

 カウンターの端に座って、白ワインを飲んでいた。ウェーブのロングヘアを片方の肩にまとめている。ノースリーブのワンピース。胸元は——前に会ったときよりは控えめだったが、それでもEカップの膨らみが布地を押し上げている。

「あ、大翔さん! こっちこっち」

 大きな丸い目で、にこっ、と笑った。上目遣い。——俺の185センチを見上げるには、それなりの角度が必要だ。環の身長では自然と上目遣いになる。

「凛さん、仕事だって〜。残念ですよね〜」

「そうだな」

「でもせっかくだし、二人で食べましょ! ここ、パスタがおいしいらしいですよ。凛さんが言ってました」

 隣に座った。環からシャンプーの甘い匂いがした。フルーツ系の、若い匂い。咲耶の匂いとも違う。咲耶はもっと——清潔で、奥に体温が混じった匂いがする。

 ワインを頼んだ。赤。環は白の2杯目を頼んだ。

「大翔さん、今日お仕事だったんですか?」

「いや、今日は休み」

「え〜、休みなのに来てくれたんですか? 嬉しい〜」

 ぽってりとした唇が、グラスの縁に触れた。下唇が特に厚い。白ワインを飲む姿が——妙に色っぽかった。本人は意識していないのかもしれない。いや——意識している。この女は、自分の唇の効果を知っている。

 前菜が来た。生ハムとブラータチーズ。環が「おいしそ〜」と言って、スマホで写真を撮った。

「大翔さん、撮ります?」

「いい。俺は撮らない派」

「えー、もったいない〜。写真あげないんですか?」

「やってない」

「まじ? 40歳で写真あげない人、初めて見た」

 ——40歳で、か。

「環は何歳だっけ」

「26です〜。大翔さんの14歳下ですね」

「……そうだな」

 14歳下。咲耶は17歳下。環のほうが近い。——近いから何だ。距離の問題じゃない。というか近くもない。

 パスタが来た。ボロネーゼと、環が頼んだジェノベーゼ。環が「一口交換しません?」と言って、自分の皿をこちらに向けた。フォークを差し出してくる。

「はい、あーん」

「……自分で取る」

「えー、つまんない」

 環がぷくっと頬を膨らませた。丸い顔がさらに丸くなった。——可愛い、と思った。思ってしまった。

 ワインが進んだ。

 環はよく喋った。バラエティの仕事の話。共演したお笑い芸人が面白かった話。マネージャーが厳しい話。元グラビアだから水着の仕事がまだ来ること。

「でも最近はタレントのほうが多いです〜。グラビアは若い子に譲って——って感じで。あ、大翔さんの彼女もグラビアですよね?」

 心臓が跳ねた。——凛から聞いたのか。

「……ああ」

「私のほうがちょっと先輩ですよ〜。大学からだから、場数だけは。咲耶ちゃん、最近ドラマ出てますよね。あの子すごいですよね。演技ちゃんとしてるし」

 咲耶の名前が、環の口から出た。——知っているのか。同じ業界だ。知っていて当然か。

「大翔さん、咲耶ちゃんと会えてないんでしょ?」

「——」

「凛さんが言ってました。寂しそうだって」

「凛は余計なことを——」

「余計じゃないですよ〜。心配してるんですよ、凛さん。私も」

 環の目が——また、一瞬だけ変わった。

 飲み会のときと同じだった。「え〜」「まじ〜」の甘い表情の奥に、別の目が覗く。観察している目。読んでいる目。

 すぐに消えた。

「あ、デザート頼みません? ティラミスあるって」

 ——切り替えが早い。

 核心に触れかけて、すっと引く。踏み込みすぎない。でも——踏み込んだことは、俺の中に残る。「寂しそうだって」。その一言が。

 デザートを食べた。会計を済ませた。俺が出そうとしたら、環が「割り勘で!」と言った。

「ご馳走してもらったら、次が誘いにくくなるので」

「次?」

「だって——また行きたいじゃないですか」

 環がまた笑った。厚みのある唇が弧を描いた。無邪気に見える。——見えるだけだ。

 店を出た。恵比寿の夜風は蒸し暑かった。7月の、じっとりとした空気。

「大翔さん、このあとどうします?」

「……帰る。タクシー呼ぶ」

「え〜。もうちょっと飲みません?」

「もう結構飲んだだろ」

「じゃあ飲まなくてもいいです。——うち、この近くなんですけど」

 環が——俺の腕に触れた。

 指先だけ。袖の上から。ほんの一瞬。

「コーヒーでも飲んでいきません?」

 わかっている。

 40歳の男が26歳の女に部屋に誘われて、コーヒーだけで帰れるはずがない。環もわかっている。わかった上で「コーヒー」と言っている。大人の言い訳を、お互いに用意している。

 咲耶の顔が浮かんだ。

 ——薄い。画面越しの咲耶と同じくらい、薄い。ぼんやりとした輪郭。声は思い出せるのに、匂いが思い出せない。いつからだ。いつから咲耶の匂いを忘れた。

 目の前には環がいる。シャンプーの甘い匂い。ぽってりとした唇。丸い顔。大きな目。上目遣い。——ここにいる。今、ここに。

「……いいよ」

 自分の声が低かった。

 環のマンションは、恵比寿から歩いて5分の場所にあった。

 1LDK。女の子の部屋だった。クッションが多い。観葉植物がある。テレビの横にぬいぐるみが3つ並んでいる。——生活感がある。咲耶の部屋とも違う。環だけの空気がある。

「散らかっててすみませ〜ん。座ってください。コーヒー淹れますね」

 ソファに座った。環がキッチンでコーヒーを淹れている。鼻歌を歌っている。ドリップの匂いが漂ってきた。

 ——何をしているんだ、俺は。

 彼女がいる。咲耶がいる。会えないだけだ。会えないだけで——こうして、別の女の部屋に上がっている。

 コーヒーが来た。マグカップ。猫の絵が描いてある。

「はい、どうぞ〜」

「ありがとう」

 環が隣に座った。近い。肩が触れる距離。ソファが小さいせいだ。——小さいソファを選んでいるのも、たぶん計算だ。

 コーヒーを飲んだ。ちゃんとうまかった。

「大翔さんって」

「ん?」

「あんまり自分からしゃべらないですよね」

「そうか?」

「そうですよ。聞かないと出てこない。でも——聞けば、ちゃんと答えてくれる。そういうところ、好きですよ」

 ——好きですよ。

 軽い。環の「好き」は、空気みたいに軽い。重さがない。だから受け取れてしまう。

 環がマグカップを置いた。

 俺のほうを向いた。大きな目が、至近距離から俺を見上げている。もちっとした白い肌。やわらかな唇が、少しだけ開いている。

「——キス、してもいいですか?」

 環が訊いた。

 断る選択肢を残しつつ、断りにくい距離で。ただし環の場合、計算ではなく——たぶん、こうやって男を誘うことに慣れているだけだ。自然体として、こうなる。

「——いいのか?」

「私が訊いてるんですよ?」

 環が笑った。その笑顔のまま、顔を近づけてきた。

 唇が触れた。

 ——厚い。唇が厚い。咲耶の唇より、凛の唇より、圧倒的に厚い。下唇がもちっと吸いついてくる。やわらかくて、熱い。

 環の舌が入ってきた。——長い。舌が長い。口の中で、俺の舌に絡みついてくる。ぐるりと回す。吸い上げる。

 うまい。——キスが、うまい。

 咲耶のキスは甘い。初々しくて、一生懸命で、ときどき歯がぶつかる。かわいい。

 環のキスは——テクニックだった。どこを舐めれば男が反応するか、知っている。知り尽くしている。

 環の手が俺の太腿に置かれた。そこから内側に滑っていく。

「——大翔さん、大きい……」

 ズボンの上から、勃起に触れた。環の指が輪郭をなぞった。

「ここも大きいんですね〜」

 おバカっぽい声。だが、指の動きは的確だった。

 俺は環の肩に手を置いた。ノースリーブの肩。肌が滑らかだった。もちっとした質感。咲耶よりも肉づきがいい。健康的な厚みがある。

 ワンピースのストラップを下ろした。環が腕を抜いた。ブラが露出した。レースの、黒いブラ。——勝負下着だ。最初からこうなるつもりだったんだな、と思った。

 ブラを外した。

 Eカップの胸が現れた。咲耶のHカップほどの衝撃はない。だが——形が丸くて、上向きで、若さのハリがある。乳首はピンクに近い色だった。

 咲耶の胸を思い出した。——あの、手に余る質量。指の間から溢れる弾力。張りが強すぎて押し返してくる感触。

 環の胸は——収まる。俺の手に、ちょうど収まる。それが——安心なのか、物足りないのか、わからなかった。

「触って……大翔さんの手、おっきい……」

 環が甘い声を出した。——半分は演技だろう。この女は——男の前で「可愛い自分」を演じることに慣れている。

 だが体は正直だった。乳首が硬くなっている。肌がうっすら紅潮している。

 ベッドに移った。

 環が俺の服を脱がせた。シャツのボタンを1つずつ外す。ベルトを抜く。——手慣れていた。

 俺の上半身が露出した。

「……やば」

 環の目が、見開かれた。——今度は演技じゃなかった。

「大翔さん、体やばくないですか……? なにこれ、めちゃくちゃ鍛えてるじゃないですか」

「ジムに通ってるからな」

「通ってるレベルじゃないですよこれ。プロじゃん」

 環の手が、俺の腹筋に触れた。指でなぞるように。——感触を確かめている。鎖骨から胸板、腹筋、腰骨のV字ラインまで。

「すごい……」

 声が小さくなった。——甘い声が消えた。素の声だ。環の演技のフィルターが、俺の体を見た瞬間に落ちた。

 悪い気はしなかった。

 環の体に手を伸ばした。腰を掴んだ。ベッドに押し倒した。——導くのではなく、押し倒した。

 環の目が一瞬だけ——あの、賢い目になった。俺の反応を読んでいる。「この人は、力で来るタイプだ」。そう判断した目。

 すぐに消えた。甘い目に戻った。でも——消えたことを、俺は知っている。

 コンドームは環が出した。サイドテーブルの引き出しから。

「……サイズ、合うかな」

「合わなかったら——」

「大丈夫です。XLもありますよ〜」

 ——用意がいい。

 装着した。きつかった。——いつものことだ。咲耶との時はほとんど使わない。生の感触に慣れた体にゴムの圧迫感が異物として戻ってくる。

 環の脚を開いた。入り口に先端を当てた。

「——入れるぞ」

「うん……お願いします」

 入れた。

 ——咲耶とは、違う。

 咲耶は狭い。きつい。膣の締め付けが異常で、入れた瞬間にコントロールが飛びそうになる。理性の糸が千切れる。獣が目を覚ます。

 環は——受け入れてくれた。余裕があった。俺のサイズに怯えない。痛がらない。体が開いている。経験がある体だった。

「あっ……、ん……大きい……」

 甘い声。かわいい声。——咲耶の声とは違う。咲耶は喘ぐ時に声が裏返る。怖がっているのに体が求めている、あの矛盾した声。

 環の声には——矛盾がなかった。気持ちいいから声を出す。単純で、明るくて、健全な快楽の声。

 腰を動かした。

 環が合わせてきた。腰を持ち上げて、俺のリズムに乗る。——上手い。経験値がある。体の使い方を知っている。

 気持ちいい。——気持ちいいのは間違いなかった。

 だが——獣が起きない。

 咲耶を抱くとき、俺の中の何かが変わる。理性が溶ける。視界が狭くなる。咲耶だけが見える。咲耶の声だけが聞こえる。あの小さな体。あの匂い。あの締め付け。全部が——俺を壊す。壊されたくて、壊しに行く。

 環を抱いていて——壊れない。

 気持ちいい。上手い。やわらかい。でも——俺の中の獣は、静かに眠ったままだった。

 30分くらいだったと思う。

 環が2回イった。俺は1回。コンドームの中に出した。——外出しの必要もなかった。環に汚したいという衝動が湧かなかった。

 事後。環が俺の胸に頭を載せた。

「……大翔さん」

「ん」

「優しいですね」

「——そうか?」

「優しかった。丁寧で。——でも、ちょっと寂しかった」

 心臓が、一拍だけ跳ねた。

「……何が」

「大翔さん、私の中にいる時——別のこと考えてたでしょ」

 ——見抜かれている。

 環は笑った。いつものおバカっぽい笑顔じゃなかった。静かな、大人の笑み。

「いいんですよ。私も——本気じゃないし」

「環」

「ん?」

「お前、バカじゃないだろ」

 環が——一瞬、目を見開いた。それから——ふっ、と息を吐くように笑った。凛みたいに。

「バカですよ〜。バカなふりしてるだけで〜」

「——それをバカとは言わない」

「あはは。大翔さん、面白い」

 環が俺の胸の上で体を起こした。もちっとした白い肌。丸い顔。厚い唇。大きな目。——その目が、一瞬だけ、素になった。

「彼女さん——大事にしてあげてくださいね」

 軽い声だった。重さがなかった。だから——ずっと残った。

 ——終わりだと思った。

 環が俺の体を滑り降りた。胸から腹筋をなぞるように——下へ。

「……環?」

「1回じゃ、もったいないですよ」

 環が笑った。丸い顔が、俺の腹の上から見上げている。大きな目。上目遣い。そしてあの厚い唇が、俺の太腿の内側に触れた。

 使用済みのコンドームを外した。指先で摘んで、ゴミ箱に放った。それから——

 舌が伸びた。

 長い。——舌が、長い。根元から先端まで、たっぷりとした長さの舌が、萎えかけたペニスの裏筋を舐め上げた。

「——っ」

 背筋に電気が走った。

 環の舌が、亀頭の周囲をぐるりと一周した。ねちゃ、と粘膜が吸いつく音。それから先端のくぼみに舌先を押し込んで——ちゅ、と吸い上げた。

 勃った。——あっという間に。

 咲耶のフェラとは全然違った。咲耶は一生懸命だ。口を大きく開けて、顎が痛くなるまで頑張る。でも19センチの巨根を咥えきれなくて、涙目になって——その健気さが愛おしい。

 環のフェラは——違う。

 全部が口の中に入っているわけじゃない。入りきらない分は手で補っている。でも舌の動きが——異常だった。長い舌がペニスの周囲をねっとりと巻きつく。亀頭をすっぽりと包み込んで、ぢゅる、ぢゅると音を立てて吸い上げる。根元から先端へ、らせんを描くように舐め上げてくる。

 丸い顔。ふっくらした頬。可愛い顔だ。——その可愛い顔の中に、俺のペニスが出入りしている。唇が限界まで伸びて、口の端から唾液が垂れて、目は閉じている。ぐちゅ、ぐちゅ、と湿った音が部屋に響く。可愛い顔が——めちゃくちゃだった。

「……環」

 声が掠れた。

 環が口を離した。唾液の糸が唇とペニスの間に光った。上目遣いで——笑った。

「大翔さん——こっちのほうが、元気ですね」

 ——否定できなかった。1回戦より、明らかに硬い。

 環がサイドテーブルからコンドームをもう1つ取り出した。パッケージを破いて——中身を唇にくわえた。

 口で装着してきた。

 唇がゴムのリングを押し広げながら、亀頭から根元へ滑り降りていく。舌がゴム越しに形をなぞっている。——うまい。うますぎる。

「——よし」

 環が体を起こした。俺の腰の上にまたがった。

 騎乗位。

 環の手が俺のペニスを掴んだ。位置を合わせて——自分から、腰を沈めた。

「ん——っ……、あ……おっきい……」

 甘い声。でも——さっきまでの控えめな声とは違った。1回戦の演技が7割だとしたら、今は——5割。素の比率が上がっている。

 環が腰を動かし始めた。

 ——圧倒された。

 1回戦は俺がリードした。俺のペースで、俺の動きで。環は合わせてきた。受け身で、甘えて、男にリードさせるのが上手い——そういう女だと思っていた。

 違った。

 環の腰が——別の生き物みたいに動いた。上下だけじゃない。前後に。円を描くように。ぐりん、と回す。俺のペニスの角度が、中で万華鏡みたいに変わっていく。

「あっ——、ん——、大翔さん——」

 環の胸が揺れていた。Eカップが上下に弾む。両手を俺の腹筋の上に置いて、体重を預けている。白い肌が汗で光り始めた。

 俺の手が環の腰を掴んだ。——止めようとしたわけじゃない。掴まずにはいられなかった。環の動きが——気持ちよすぎた。

「——っ、環——」

「大翔さん——気持ちいい?」

「……ああ」

「嘘。——さっきよりも、ずっと気持ちいいでしょ?」

 環の目が——変わっていた。おバカっぽい甘い目じゃない。上からこちらを見下ろす、確信のある目。俺を完全に読んでいる目。

 腰の動きが加速した。ぱん、ぱん、ぱん——環の尻が俺の腰を打つ音が響く。

「あっ——あっ——あっ、ん——大翔さん——っ」

 環の声が大きくなった。甲高い声が——途中から、低い声に変わった。喉の奥から絞り出すような。演技が剥がれていく音。

 俺も限界だった。環の中がきゅう、と締まった。膣壁が俺のペニスを絞り上げる。

「——イく——環——」

「私も——一緒に——っ」

 環が腰を叩きつけた。深く。最後の一突き。

 同時にイった。

 環の体が震えた。俺のペニスの上で、膣が痙攣している。環の口が開いて——声にならない声が漏れた。目が閉じている。眉根が寄っている。——素の顔だった。演技じゃない。本当にイっている顔。

 俺もコンドームの中に出した。今度は——全身が痺れた。1回戦とは比べものにならない射精だった。

 環が俺の上に崩れ落ちた。息が荒い。汗ばんだ肌が俺の胸に貼りついている。

 数秒——そのまま。

 環が顔を上げた。目が潤んでいた。頬が紅潮している。丸い顔が——上気して、少し大人に見えた。

 環が俺の顔に手を添えた。そして——キスをした。

 深いキスだった。あの長い舌が俺の口の中に入ってくる。ゆっくりと。ねっとりと。唇が吸いつく。舌が絡む。唾液が混ざる。——さっきの事後の余韻が全部、このキスの中に溶けていく。

 長いキスだった。

 環が唇を離した。目が合った。

「——大翔さん」

「……ん」

「大事にしてあげてね。——2回言ったからね」

 環が笑った。いつもの笑顔に戻っていた。おバカっぽくて、甘くて、軽い。——でも、目だけが笑っていなかった。一瞬だけ。

 服を着た。環がドアまで送ってくれた。

「また飲みましょ〜。凛さんも一緒に!」

「ああ」

「じゃ、おやすみなさい〜」

 ドアが閉まった。

 エレベーターを降りて、外に出た。恵比寿の夜は蒸し暑かった。タクシーを拾った。

 後部座席で——スマホを見た。

 咲耶からのメッセージ。20時32分。

『ロケ終わった。疲れた〜。大翔何してる?』

 3時間前。飯を食っている最中だった。環と。

『おつかれ。飯食ってた。もう帰る』

 嘘は言っていない。誰と食べたかを、言っていないだけだ。

 既読がついた。

『おつかれ! 早く寝てね。おやすみ』

『おやすみ』

 スマホを置いた。

 タクシーの窓の外を、街灯が流れていく。

 環の言葉が——まだ、耳に残っていた。

「大事にしてあげてね。——2回言ったからね」

 大事にしている。——大事にしているつもりだ。

 でも——大事にすることと、寂しくないことは、別だった。

 府中に着いた。タクシーを降りた。マンションのエントランスを通った。エレベーターで7階に上がった。ドアを開けた。

 誰もいない。

 いつもと同じだ。

 靴を脱いだ。照明をつけた。冷蔵庫からビールを出した。ぷしゅ、と音がした。

 ——この音が、今日最後の「自分だけの音」だった。

 咲耶の匂いがする部屋に、帰りたかった。

 でも——この部屋には、咲耶の匂いが残っていない。最後にここにいたのが、いつだったか。もう——思い出せない。

 ビールを飲んだ。天井を見た。白い天井。

 環の匂い——シャンプーの甘い残り香が、シャツの袖についていた。

 洗濯すれば消える。

 環の匂いは——消える。凛の匂いも、消える。

 消えない匂いは——咲耶だけだ。

 咲耶の匂いだけが、この部屋に染みついている。ソファに。枕に。シーツに。——いや、それも嘘だ。もう染みついていない。2ヶ月以上、咲耶はここに来ていない。

 残っているのは——俺の記憶の中の匂いだけだ。

 それすら、薄くなっている。

 ビールの缶を置いた。空だった。

 もう1本出す気にもならなかった。

 部屋が、静かだった。

幕間 噛み合わない夜

 8月の終わり。

 2ヶ月半ぶりに、咲耶が大翔の部屋に来た。

 府中のマンション、706号室。ドアを開けた瞬間、咲耶は大翔の胸に飛び込んだ。149センチの体が、185センチの体にぶつかる。大翔の腕が咲耶を包んだ。咲耶の頭が、大翔の胸の真ん中に収まった。

「——会いたかった」

 咲耶が言った。くぐもった声だった。大翔のTシャツに顔を押しつけている。

 大翔は何も言わなかった。咲耶の髪に顔を埋めた。シャンプーの匂い。その下にある、咲耶だけの匂い。——ああ、この匂いだ。2ヶ月半、忘れかけていた匂い。

 咲耶が顔を上げた。目が少し赤い。泣きそうなのか、泣いたのか。

「——ただいま」

「おかえり」

 大翔が咲耶の頬に触れた。親指で目の下をなぞった。咲耶が目を閉じた。大翔の手のひらに、小さな顔が収まる。

 キスをした。

 軽いキスだった。唇が触れて、離れて、もう一度触れた。咲耶の唇がかすかに震えていた。

「——ごはん、作ってあるぞ」

「え、うそ。大翔が?」

「カレーだけど」

「カレー好き」

 咲耶が笑った。いつもの笑顔だった。えくぼが出る、屈託のない笑顔。——大翔はその笑顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。

 カレーを食べた。

 大翔が作ったカレーは、いつも具が大きい。じゃがいもが半分に切っただけのサイズで入っている。にんじんもごろごろしている。咲耶は「おいしい」と言いながら、じゃがいもをスプーンの背で潰した。

「大翔のカレー、いつも具がでかいんだよね」

「そのほうが食べ応えあるだろ」

「あるけど。口に入んないよ、これ」

「口がちっちゃいんだよ」

「体がちっちゃいの!」

 笑った。二人とも。

 テレビはつけなかった。大翔はビールを飲んだ。咲耶はお茶を飲んだ。撮影の話をした。ドラマの話。バラエティの話。大翔は企業PVの仕事が増えたと言った。咲耶は「すごいじゃん」と言った。

 会話は弾んでいた。——弾んでいるように、見えた。

 でも、言葉と言葉の間に、ほんのわずかな隙間があった。以前はなかった隙間。0.5秒の、気づかないくらいの間。相手の言葉を受け取ってから返すまでの、ほんの一瞬——何かを飲み込んでいるような、間。

 二人とも、それに気づいていなかった。気づいていないふりをしていたのかもしれない。

 皿を洗った。大翔が洗って、咲耶が拭いた。

 小さなキッチンに二人で立つと、咲耶の体は大翔の腰のあたりまでしかない。大翔が上の棚に皿を戻すとき、咲耶は届かない。背伸びをして——それでも届かなくて、大翔が後ろから手を伸ばして代わりに戻した。

 その瞬間、大翔の胸が咲耶の背中に触れた。

 咲耶の体が、かすかに強張った。

 ——一瞬だけ。本当に一瞬。すぐに力が抜けて、「ありがと」と笑った。

 大翔はそれを見逃さなかった。——見逃さなかったが、何も言わなかった。

 ソファに座った。

 咲耶が大翔の肩にもたれかかった。大翔の腕が咲耶の肩に回った。いつもの形。何百回もこうしてきた。咲耶の黒い髪が大翔の腕に広がる。

「——大翔」

「ん」

「匂い、変わんないね」

「匂い?」

「大翔の匂い。——好き」

 咲耶が大翔の首筋に顔を埋めた。深く吸い込んだ。汗と石鹸が混ざった、重くて低い匂い。その奥にある、大翔だけの体臭。

 ——これだ。この匂いだ。

 2ヶ月半ぶりに嗅いだ大翔の匂いは、記憶の中の匂いと同じだった。同じなのに——こんなに遠かった。画面越しでは届かなかった匂いが、今、鼻の奥に広がっている。

 咲耶の目が潤んだ。——泣いているわけじゃない。匂いが鼻の奥を刺激しただけだ。たぶん。

 大翔が咲耶の顎を持ち上げた。目が合った。

 キスをした。

 今度は——深かった。大翔の舌が咲耶の口の中に入ってきた。奥まで。咲耶の舌に絡みついて、吸い上げて。息ができなくなる。

 いつものキスだ。大翔のキスは、いつもこうだ。最初から深くて、激しくて、体ごと押し倒されるような——

 ——蓮さんのキスとは、全然違う。

 咲耶の脳裏に、蓮の顔が一瞬だけ過った。浅くて、軽くて、的確だったあのキス。唇の端を噛まれたときの——

 消した。頭の中から、消した。今は大翔がいる。大翔のキスだ。大翔の匂いだ。大翔の——

 大翔が咲耶をソファに押し倒した。大きな体が覆いかぶさる。体重がかかる。149センチの体が、85キロの体の下に沈む。

 いつもなら——ここで咲耶の体が溶ける。大翔の重さと匂いと体温に包まれて、意識がとろけていく。抵抗する力がなくなって、全部を委ねる。

 ——溶けない。

 体が、溶けない。大翔の体温を感じている。匂いも感じている。重さも感じている。全部、わかっている。なのに——体が、いつものように反応しない。

 大翔もそれを感じていた。

 咲耶の体が——硬い。いつもの咲耶じゃない。いつもなら、押し倒した瞬間に体が開く。力が抜ける。蕩けるように柔らかくなる。

 今夜は——力が抜けきっていない。どこかに、芯が残っている。

 大翔はTシャツを脱いだ。咲耶のトップスに手をかけた。脱がせた。ブラを外した。

 外した途端、ぶるん、と音を立てるように、Hカップの胸が零れた。張りが強くて、重力に逆らう白い乳房。ピンク色の乳首。——何度見ても、息が詰まる。

 大翔が右の乳房を掴んだ。いつもより——少し、丁寧に。普段なら力任せに揉む。鷲掴みにする。それが大翔のやり方で、咲耶はそれが好きだった。

 今夜は——丁寧だった。

 なぜかはわからない。大翔自身にもわからなかった。ただ——環の体を触った記憶が、指の腹に残っている。Eカップの、手に収まる柔らかさ。あの感触が——邪魔をしている。

 咲耶の胸は、手に収まらない。指の間から溢れる。押せば押し返してくる。——いつもなら、それに興奮する。獣が目を覚ます。

 今夜は——獣が、来ない。

 乳首を舐めた。咲耶が声を出した。

「ん……っ」

 小さな声だった。いつもなら、もっと甲高い声が出る。体が跳ねる。「あ——っ」と、抑えきれない声が漏れる。

 今夜の咲耶の声は——小さくて、控えめだった。

 大翔の指が下に降りた。下着の上から触れた。

 ——濡れていた。濡れてはいた。でも、いつもよりも——少ない。体は反応している。でも、心がついてきていない。そんな感じだった。

 下着をずらし、指を入れた。

「あっ……」

 声が出た。大翔の指が中で動いた。いつもの場所。いつもの角度。4年間で覚えた、咲耶の体の地図。

 咲耶は目を閉じていた。眉根が寄っている。——気持ちいいのか、苦しいのか。その境目がわからない表情。

 Gスポットを優しく擦るが、今日は様子が違う。大翔は焦っていた。早く入れてしまおう。指を抜いた。

 コンドームを——つけた。サイドテーブルの引き出しから取り出して、装着した。いつもなら、つけない。最近はほとんど使わない。なのに——今夜は、つけた。

 なぜかはわからない。大翔自身にもわからなかった。ただ——素肌で触れることが、今夜だけは、怖かった。

 入れた。

 咲耶の膣が、大翔のペニスを締め上げた。——きつい。いつもと同じだ。異常な締め付け。19センチの巨根を、149センチの小さな体が受け入れている。

 ——でも。咲耶は気づいていた。薄い膜が、ある。いつもはない膜。ゴムだけじゃない——もっと別の何かが、大翔の熱を遮っている。ペニスの形はわかる。太さも、硬さも。

 ……ゴム?

 大翔が、ゴムをつけている。最近はほとんど使わなかったのに。——なぜ。

 聞けなかった。聞いたら、何かが壊れる気がした。

「——っ、あ、……」

 咲耶が息を呑んだ。目を固く閉じている。

 大翔が腰を動かした。ゆっくりと。いつもよりゆっくりと。

 ——なぜ急がないのか、大翔はわからなかった。いつもなら、入れた瞬間から獣になる。理性が飛んで、腰が勝手に動いて、咲耶の体を貪り尽くすまで止まらない。

 今夜は——止まっている。理性が、残っている。

 咲耶の中にいる。咲耶の体を感じている。咲耶の声を聞いている。なのに——どこか遠い。ガラス一枚隔てたところにいるみたいに。

 咲耶も同じことを感じていた。

 大翔の体は大きくて、熱くて、重い。中を満たしている感覚は——いつもと同じだ。大翔のペニスが奥まで届いて、子宮口に触れるたびに体の芯が疼く。

 なのに——いつもの「壊される」感覚がない。

 大翔が優しい。いつもより優しい。それが——怖かった。

 大翔のセックスに「優しい」は似合わない。大翔は獣だ。貪る。壊す。支配する。それが大翔で、咲耶はそれを求めている。

 今夜の大翔は——人間だった。

 腰の動きが加速した。大翔が自分を叱咤するように、ペースを上げた。肉がぶつかる音が部屋に響く。ぱん、ぱん、ぱん。

「あっ、あっ——ん——」

 咲耶の声が大きくなった。体が反応し始めた。——ようやく。遅い起動だった。

 大翔も加速した。腰の動きが荒くなった。深く、速く。いつもの大翔に近づいていく。

 ——でも。

 近づいていく——だが、そのものではなかった。

 咲耶は気づいていた。大翔の目が——いつもと違う。いつもの大翔は、セックスの最中に目がぎらぎらする。瞳孔が開いて、視線がネトネトとして、人間の目じゃなくなる。

 今夜の大翔の目は——人間のままだった。

 大翔も気づいていた。咲耶の体が——いつもと違う。いつもの咲耶は、イく前に膣がぎゅうっと締まる。全身が弓なりに反って、目の焦点が合わなくなって、壊れたように痙攣する。

 今夜の咲耶は——壊れない。気持ちよさそうにはしている。声も出している。体も反応している。でも——あの、理性が吹き飛ぶ瞬間が、来ない。

 大翔の腰がさらに速くなった。自分を追い込むように。ぱん、ぱん、ぱん、ぱん——リズムが崩れ始めた。いつもの正確さがない。焦っている。気持ちいいのに——届かない。届かないから、力で押し通そうとしている。

「あっ——あっ——あっ——」

 咲耶の声が上がった。体が揺れた。胸が波打った。——いつもなら、ここで膣がぎゅうっと締まる。大翔のペニスを絞り上げて、二人とも一緒に落ちていく。

 締まらなかった。

 咲耶は自分でわかっていた。——ダメだ。体が、乗らない。声は出ている。感じてはいる。でも、奥の奥が開かない。

 大翔の腕にしがみついた。自分から腰を持ち上げた。もっと深く。もっと奥に。——届いてほしい。大翔のペニスが、あの場所に届いてほしい。

「大翔——もっと——」

 声を出した。いつもなら勝手に出る言葉を、今夜は自分で選んで出した。盛り上げたかった。いつもの二人に戻りたかった。

 大翔が応えた。腰を叩きつけた。深く。強く。ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ——

「あっ——あっ——んっ——」

 咲耶は声を張った。甘い声を作った。大翔が好きな声。大翔が獣になる声を——意識して、出した。

 ——嘘だった。半分は本当で、半分は嘘だった。気持ちいい。でもいつもの10分の1くらいの場所で、体が止まっている。そこから先に行けない。

 大翔も気づいていた。咲耶の声が——いつもと違う。いつもの咲耶の喘ぎは、抑えようとしても漏れる声だ。必死に堪えて、それでも零れてしまう声。

 今夜の声は——出そうとして出している声だった。

 わかる。4年間、この体を抱いてきた男には——わかる。

 ——ダメだ。

 大翔の中で、何かが軋んだ。もっと深く。もっと強く。もっと——咲耶を壊したい。壊して、あの声を聞きたい。あの、理性が吹き飛んだ咲耶の声を。

 腰を叩きつけた。体重を乗せた。ソファが軋んだ。ぎし、ぎし、ぎし——

「あっ——あっ——大翔——っ」

 咲耶が大翔の首にしがみついた。必死だった。——咲耶も、必死だった。この夜を、いつもの夜にしたかった。大翔の匂いの中で壊されて、何もわからなくなりたかった。

 でも——体が嘘をつけなかった。

 膣が大翔を掴まない。大翔を求めない。コンドーム越しの大翔は——遠かった。すぐそこにいるのに、膜1枚の向こう側にいた。

 大翔はそれを感じていた。コンドーム越しだからこそ、わかった。いつもの生の感触がない。咲耶の膣壁が直接吸いつく、あの感覚がない。薄い膜1枚が——今夜だけは、壁だった。

 なぜゴムをつけたのか。自分でもわからない。わからないまま——限界だけが来た。

「——っ、……ダメだ——出る」

 大翔の声が掠れた。低く、短く。苦しそうだった。いつもなら言葉にならない。獣の唸りだけが漏れる。今夜は——言葉が出た。人間の言葉が。「ダメだ」は咲耶に向けたものじゃなかった。自分に向けた言葉だった。こんなはずじゃないのに——という、呻きだった。

 咲耶が大翔の背中に手を回した。爪が食い込んだ。引き寄せた。大翔の体に自分を押しつけた。

「——いいよ。出して」

 震えていた。声が。咲耶の声が、かすかに震えていた。

 いつもなら言わない。言う前に大翔が決める。体が勝手に決める。咲耶はただ受け止めるだけでよかった。

 今夜は——咲耶が言葉を選んだ。大翔が苦しそうだったから。大翔の「ダメだ」を聞いてしまったから。

 それが——二人とも、悲しかった。

 大翔が射精した。

 コンドームの中に。

 どくん、どくん、と脈動した。——いつもなら、引き抜いて、咲耶の肌に直接ぶちまける。白い液体で腹を汚して、匂いが部屋に充満して、征服欲が満たされる。

 今夜は——ゴムの中だった。精液がゴムの先端に溜まっていく。咲耶の体のどこにも触れない。匂いが——立ち上がらない。

「——ごめん…っうあっ!」

 大翔が言った。咲耶の上で。まだ中に入ったまま。脈動が続いている最中に。

「ごめん……ごめんな……」

 小さな声だった。掠れていた。——何に謝っているのか、咲耶にはわからなかった。

 中で出してしまったことを? ——ゴムの中だから、問題はない。イかせてあげられなかったことを? 噛み合わなかったことを? 優しくしてしまったことを? ゴムをつけたことを?

 全部かもしれない。どれでもないかもしれない。大翔自身も、わかっていなかった。ただ「ごめん」が漏れた。精液と一緒に。

 咲耶は大翔の背中に手を置いたまま、何も言わなかった。

 静かだった。

 脈動が終わった。大翔が咲耶の上で息を整えた。額に汗が浮いている。ゆっくりと引き抜いた。コンドームを外して、ティッシュに包んで、ゴミ箱に落とした。かさ、と乾いた音がした。

 咲耶は——イっていなかった。

 気持ちよくなかったわけじゃない。気持ちよかった。途中まで。でも、最後の一線——意識が飛ぶ瞬間——に、届かなかった。大翔の精液の匂いがしなかった。いつもなら体中に染みつくあの匂いが——今夜は、ゴムの中に閉じ込められていた。

 大翔はそれをわかっていた。咲耶の体を知り尽くしている。イった時の反応を、4年間で何百回も見てきた。今夜は——なかった。

 ——もう1回。

 咲耶がソファの上で体を起こした。大翔の太腿の間に滑り込んで、膝をついた。

 使用済みのコンドームを外したばかりのペニスが——萎えかけていた。1回目の不完全燃焼が、体にも出ていた。

 咲耶は、まずそこに顔を寄せた。鼻先がペニスの根元に触れた。——匂いを嗅いでいた。大翔の匂い。ゴムの匂いの下にある、大翔だけの匂い。

 片手はペニスを持ち上げ、もう片方の手は、大翔の乳首を刺激し始めた。親指で優しく大翔の乳首を弾く。

 舌が伸びた。根元から。ゆっくりと、丁寧に。竿に残った精液の跡を、舐め取るように。下から上へ。ぬるりとした軌跡を、舌の腹で拾っていく。

 亀頭に辿り着いた。舌先でカリの縁をなぞった。くるり、と一周。窪みに残った雫を、ちゅ、と吸い出した。——しょっぱい。濃い。大翔の味がする。

 唇で亀頭を包んだ。吸った。——強くではない。赤ちゃんがおしゃぶりを吸うように、やわらかく、ゆっくりと。イかせるためのフェラじゃなかった。大翔に気持ちよくなってほしかった。さっき噛み合わなかった分を、ここで埋めたかった。

 舌が裏筋を舐め上げた。ゆっくりと。何度も。同じ場所を、丁寧に、丁寧に。

 硬くなっていった。咲耶の口の中で。少しずつ。脈を打ちながら。——咲耶の唇と舌だけは、嘘をつかなかった。大翔のペニスを咥えている時だけ、咲耶の体に迷いがなかった。

 口だけに切り替え、両手で乳首を刺激し始めた。もっと、もっと気持ち良くなって欲しい。

 大翔の手が、咲耶の頭に触れた。——撫でた。押し込まなかった。

 咲耶は目を閉じていた。大翔のペニスを口に含んで、舌を動かしながら、目を閉じていた。——この瞬間だけは、安心できた。大翔の匂いの中にいた。大翔の体温が唇に伝わっていた。

 十分に硬くなったところで、咲耶が口を離した。唾液の糸が——唇とペニスの間で光って、切れた。

 大翔が咲耶の体を抱き起こした。ソファの上で体位を変えた。咲耶を膝の上に座らせて、対面座位。2ヶ月半ぶりだ。1回で終わるはずがない。終わらせたくなかった。

 新しいコンドームを装着した。——また、つけた。

「大好き」

 咲耶が囁いた。大翔の肩に手を置いて、自分から腰を沈めた。

「ん——っ」

 入った。奥まで。対面座位は深い。咲耶の体重で、大翔のペニスが最も深い場所に届く。

 咲耶が腰を動かした。自分から。——いつもなら大翔がリードする。今夜は咲耶が動いた。大翔を気持ちよくさせたかった。大翔の獣を起こしたかった。

 上下に。ゆっくりと。大翔の目を見ながら。

 大翔が咲耶の尻を掴んだ。引き寄せた。深く。——もっと深く。

「あっ——あっ——」

 咲耶の声が出た。今度は——さっきよりも、本物に近かった。対面座位の密着感。大翔の顔がすぐそこにある。匂いが鼻に入ってくる。汗と石鹸と——大翔の匂い。

 ——ああ。この匂いだ。

 咲耶の目が潤んだ。匂いで。大翔の匂いで。泣きそうになった。

 でも——体の奥は、まだ開かなかった。

 大翔は気づいていた。咲耶が頑張っている。頑張って腰を動かして、頑張って声を出して、頑張ってこの夜を「いつもの夜」にしようとしている。

 その健気さが——痛かった。

 大翔が腰を掴んだ。咲耶のリズムに合わせて、下から突き上げた。対面座位。密着。咲耶の胸が大翔の胸板に押しつけられている。汗が混ざる。体温が混ざる。

「ん——あ——っ——」

 咲耶の声が漏れた。さっきよりは——近い。近いけれど、まだ遠い。

 大翔は——諦めなかった。腰を速めた。深く。咲耶の体を引き寄せて、奥まで。

 でも——獣が来ない。力はある。速さもある。でも——あの、理性が飛ぶ瞬間が来ない。人間のまま、腰を動かしている。

 限界が来た。

「——っ」

 大翔が咲耶を抱きしめたまま、射精した。コンドームの中に。2回目。

 咲耶の膣は——やはり、締まらなかった。

 どくん、どくん。脈動が咲耶の中で響いている。ゴム越しに。——届かない。大翔の熱が、届かない。

 ゆっくりと引き抜いた。コンドームを外した。ティッシュに包んで、テーブルの上に置いた。——ゴミ箱まで手が届かなかった。

 咲耶は——まだイっていなかった。2回とも。

 大翔が咲耶を抱き上げた。ソファから。——軽い。149センチの体は、85キロの腕の中で羽のようだった。

 ベッドに運んだ。

 咲耶がベッドの端に膝をついた。大翔の前に。——また、顔を寄せた。

 2回目の後のペニスは、さっきよりも萎えていた。コンドームの中に2回出して——疲れている。40歳の体。2ヶ月半のブランク。

 咲耶は急がなかった。

 まず——竿に残ったものを、舌で丁寧に舐め取った。根元から。ゆっくりと。精液の跡を一筋ずつ拾うように。1回目よりもさらに丁寧だった。まるで——大翔のペニスを労わるように。

 亀頭に触れた。舌先で先端の窪みを舐めた。ちろ、ちろ、と。小さな舌が、小さな場所を、何度も何度もなぞる。

 唇で包んだ。吸った。——優しく。ゆっくりと。口の中で転がすように。

 そして——目を上げた。

 咥えたまま。大翔の顔を、見上げた。

 潤んだ瞳。上目遣い。149センチの小さな体がベッドの端に膝をついて、185センチの男のペニスを口に含んで——じっと、見ている。

 口を動かしながら、目を逸らさなかった。大翔の目を、ずっと見ていた。

 ——ここにいるよ。

 声にはならない。口がふさがっているから。でも——瞳が言っていた。潤んだ黒い瞳が、大翔だけを見ていた。

 少しずつ深く咥えていった。限界まで。喉の奥に当たる。——えずきそうになった。でも引かなかった。涙が溢れた。頬を伝った。それでも目は逸らさなかった。大翔の顔を、じっと。

 大翔のために。大翔を気持ちよくさせるために。いつもの夜を取り戻すために。——言葉にできないものを、この瞳で伝えようとしていた。

 両手を添えた。片手は竿を包み込むように握って、口と手で同時に動いた。もう片方は、柔らかくなった陰嚢と睾丸をマッサージ。時々、ほんの少しだけ、強く握る。まるで精子を絞り出すように。唾液が溢れて顎を伝った。ぬちゃ、ぬちゃ、と湿った音がベッドの上に落ちた。涙と唾液が混ざって、咲耶の顎から糸を引いて落ちた。——それでも、上目遣いは崩れなかった。

 硬くなっていった。3回目の勃起。——咲耶の口と、咲耶の瞳が、大翔を起こした。

 大翔は咲耶の頭に手を置いていた。——今夜はずっと、押し込まなかった。いつもなら頭を掴んで、喉の奥まで突き込む。今夜は——ただ、咲耶の髪を撫でていた。見下ろしていた。こちらを見上げている、小さな顔を。

 ——こんな目をされたら、壊せない。

 大翔は——わかっていた。この目は、信頼の目だ。「あなたを信じている」という目だ。獣が、怯んでいた。

 咲耶が口を離した。ぷは、と息を吐いた。少しだけ「うっ…」とえづいて、大翔を見上げる。唇がぬるぬるに光っている。涙の跡が頬に2本。

 ——大翔の顔が、泣きそうだった。

 いや——泣いてはいなかった。でも、いつもの大翔の顔じゃなかった。余裕がなかった。強さがなかった。獣がいなかった。40歳の男が——咲耶の瞳に見つめられながら、ただ勃たせてもらっている顔だった。

 咲耶は——その顔を、見なかったことにした。

 3回目。新しいコンドームを装着した。

 今度は——激しくいった。

 正常位。体重を乗せて、最初から深く、速く。2回分の焦りが腰に乗っていた。壊したい。壊さなきゃ。この噛み合わない夜を、力で叩き壊したい。

 ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ——

「——っ、あ——痛っ——」

 咲耶が顔を歪めた。

 ——痛い?

 大翔の動きが止まった。咲耶が痛がっている。——こんなことは、最初の頃以来なかった。4年間で咲耶の体は大翔のサイズに慣れていた。痛がることなんて、もうなかったはずだ。

「……ごめん」

 大翔が言った。腰を引いた。浅く。ゆっくりと。力を抜いて——優しく。

「……大丈夫。ごめんね、大丈夫だから」

 咲耶が大翔の頬に手を添えた。小さな手。——大翔は、その手に導かれるように、ゆっくりと動き直した。

 浅く。やわらかく。壊すためではなく、労わるように。

 ——いつからこうなった。

 大翔の中で、何かが軋んだ。俺はこの子を壊す男だったはずだ。獣だったはずだ。なのに今夜は——壊すどころか、痛がらせている。それを詫びている。こんなセックスは——4年間で、一度もなかった。

 咲耶は目を閉じていた。大翔のゆっくりとしたストロークを受けている。痛みは引いていた。優しい動き。丁寧な動き。——大翔らしくない動き。

 ——蓮さん、みたいだった。

 咲耶の頭に、蓮の顔が浮かんだ。

 浅くて、やわらかくて、丁寧な腰の動き。角度を探りながら、痛くない場所を見つけようとしている大翔の——それは、蓮さんと同じだった。

 違う。違う。大翔は蓮さんじゃない。大翔は——

 でも体が反応してしまった。

 蓮さんの顔が浮かんだ瞬間——膣が、きゅっと締まった。

「——っ!」

 大翔が声を上げた。——突然の締め付け。さっきまで掴んでこなかった膣壁が、急に、ぎゅうっとペニスを絞り上げた。

 咲耶の体が弓なりに反った。目の焦点が合わなくなった。

「あ——あっ——あああっ——」

 イった。

 今夜初めて。——蓮を思い出して。

 咲耶の膣が痙攣した。きゅう、きゅう、きゅう——コンドーム越しでも伝わる、凄まじい収縮。4年間で覚えた咲耶の絶頂の反応。——あの反応だ。ようやく。

 大翔は——耐えられなかった。

「さく、や——っ、……あ——ダメだ——っ」

 声が裏返っていた。40歳の男の声じゃなかった。余裕も、威厳も、獣の唸りもない。ただ——咲耶の名前にしがみついていた。

 咲耶の締め付けに絞り上げられて、コントロールが飛んだ。引き抜く間もなかった。

 コンドームの中で——どくん、どくん、どくん。

 中で出した。ゴムの中だから咲耶の体には届いていない。でも——引き抜けなかった。咲耶の中に入ったまま、情けなく、漏らした。

 いつもなら——引き抜いて、咲耶の体にぶちまけて、征服欲を満たす。それが大翔のやり方だった。

 今夜は——ずっとひたすらに、漏らしていた。

 脈動が止まった。

 大翔は咲耶の上で、額をシーツに押しつけた。息が荒い。——情けなかった。こんな射精は初めてだった。

 咲耶は目を閉じていた。余韻が体を波のように通り過ぎていく。——イけた。ようやくイけた。

 でも——なぜイけたのか。何を思い出してイったのか。

 それだけは——大翔に、絶対に知られてはいけなかった。

 ゆっくりと引き抜かれた。コンドームを外す音。ティッシュに包む音。

 二人とも、何も言わなかった。

 大翔がベッドに横になった。天井を見た。咲耶も天井を見た。白い天井。

 3回した。2ヶ月半ぶりの夜に、3回。——いつもなら、もっとする。5回でも6回でも。体が求めるまま、朝まで。

 今夜は——3回で、止まった。

 なのに——二人の間に、薄い膜が一枚あった。透明な壁。触れ合っているのに、届かない。

 咲耶が寝返りを打って、大翔の胸に頭を載せた。大翔の腕が咲耶の肩を抱いた。いつもの形。

「……ねえ」

「ん」

「今日——なんか、優しかったね」

「……そうか」

「うん。いつもより——」

 咲耶は言葉を切った。「いつもより何」を、言えなかった。いつもより獣じゃなかった。いつもより人間だった。いつもより——遠かった。

「——疲れてんのかもな」

 大翔が言った。

「うん。——私も、ちょっと疲れてるかも」

 嘘ではなかった。二人とも疲れている。仕事が忙しい。会えない日が多い。すれ違いが続いている。疲れのせいだ。——そう思うことにした。

 大翔が咲耶の髪を撫でた。ゆっくりと。指が黒い髪の間を通っていく。

 咲耶が目を閉じた。

 大翔の匂いに包まれている。大翔の体温に触れている。大翔の心臓の音が聞こえている。

 ——足りない。

 全部あるのに、足りない。こんなに近いのに、遠い。

 それが何のせいなのか——咲耶は知っていた。大翔は知らなかった。

 大翔は——自分のせいだとも思っていた。

 二人とも、同じ天井を見ていた。同じベッドの上にいた。同じ夜を過ごしていた。

 でも——見ているものが、違った。

 咲耶の瞼の裏に、蓮の顔が浮かんでは消えた。消しても浮かぶ。消しても。

 大翔の指の腹に、環の肌の感触が残っていた。もちっとした、やわらかい肌。それを振り払うように、咲耶の髪を強く撫でた。

 咲耶が寝息を立て始めた。

 小さな寝息だった。疲れていたのだろう。大翔の胸の上で、149センチの体が丸くなっている。

 大翔は眠れなかった。

 天井を見ていた。白い天井。暗い部屋。咲耶の体温が左半身に伝わっている。

 ——今夜、獣が起きなかった。

 それが何を意味するのか、大翔にはわかっていた。わかっていて——認めたくなかった。

 咲耶の髪から、シャンプーの匂いがする。その下にある、咲耶だけの匂い。

 ——まだ、ここにある。

 この匂いがある限り、大丈夫だと思いたかった。

 咲耶の寝息が、静かな部屋に響いていた。

 大翔はその音を聞きながら——ずっと、天井を見ていた。

五 咲耶

 9月。

 蓮さんの部屋のチャイムを押したのは、私のほうだった。

 あの夜——2ヶ月半ぶりに大翔に会えた夜——の後、1週間が経っていた。大翔の匂いはまだ鼻の奥に残っている。あの重くて低い匂い。石鹸と汗が混ざった、体温の匂い。あの匂いに包まれて眠った夜は、確かに安心した。

 でも——足りなかった。

 全部あったのに、足りなかった。大翔の体温。大翔のペニス。大翔の腕。全部、いつもと同じだったのに——壊されなかった。大翔のセックスに「優しい」は似合わない。なのに、あの夜の大翔は優しかった。獣が起きなかった。

 理由は、わかっている。

 私が——別の男を知ったからだ。

 蓮さんのセックスを知った体が、大翔の体の上で、ほんの一瞬だけ——比較してしまった。その一瞬が、全部を狂わせた。

 蓮さんからメッセージが来たのは、5日前だった。

『また来ませんか。台本の読み合わせ、まだやりたいところがあって』

 読み合わせ。その言葉が、前回と同じ嘘だとわかっている。ドラマはとっくにクランクアップしている。台本なんてもう手元にない。——蓮さんもわかっている。わかった上で、その言葉を選んでいる。断る余地を残す、いつものやり方。

 2日間、返信しなかった。

 3日目の夜、大翔に電話した。10コールで留守電に切り替わった。折り返しは来なかった。翌朝、『ごめん。寝てた。今日も朝から現場。また電話するな』。

 その夜、蓮さんに返信した。

『土曜の夜、空いてます』

 3秒で既読がついた。

『19時、うちで。ワイン買っておきます』

 ——次こそは。

 何を期待しているのか、自分でもわからないまま。

 代々木のマンション。5階。前回と同じ廊下。前回と同じドア。

 インターホンを押した。前回は心臓が鳴った。今回は——鳴らなかった。自分でも驚くくらい、静かだった。

「どうぞ。開いてます」

 蓮さんの声がインターホン越しに聞こえた。ドアを開けた。

 部屋は前回と同じだった。整然とした本棚。テーブルの上にワインの瓶が2本。グラスが2つ。——前回は1本だった。2本目は、長くなることを見越している。

「いらっしゃい」

 蓮さんがキッチンから出てきた。グレーのスウェットにTシャツ。前回と同じ格好。髪を下ろしている。

「お邪魔します」

 靴を脱いだ。ソファに座った。蓮さんがワインを注いでくれた。赤。前回と同じ——いや、違う瓶だった。ラベルが違う。でも赤ワインであることは同じ。

「今日はどうでした?」

「バラエティの収録。朝からだったので、ちょっと疲れてます」

「お疲れさま」

 グラスを合わせた。飲んだ。渋みが舌に広がった。

 会話が——少なかった。

 前回は、芝居の話をした。ドラマの話。次の仕事の話。蓮さんの舞台の話。台本の読み合わせという名目があったから、話題があった。

 今回は名目がない。お互い、ここに何をしに来たかわかっている。だから——埋める必要のある時間が、短い。

 ワインを半分ほど飲んだところで、蓮さんがグラスを置いた。

 前回は、ここで「もう1杯、飲んでいきません?」と言った。今回は——言わなかった。

 蓮さんの手が、私の髪に触れた。前回と同じ場所。耳のそばの一束。すくうように。

 前回は「ずっと、気になってたんですけど」と言った。今回は——何も言わなかった。

 指が耳の後ろを滑って、うなじに触れた。前回、ここが弱いと知った指が、迷いなくそこに来た。

「——っ」

 背筋がぞくっとした。——前回と同じ反応。私の体は、蓮さんに覚えられている。

 唇が触れた。キスだった。やわらかくて、浅くて、的確な。前回と同じキス。唇の端を軽く噛まれた——前回、ここで声が漏れたことを、蓮さんは覚えている。

「ひっ——」

 覚えている。全部。

 「……ダメですか?」は、今回はなかった。前回で答えは出ている。聞く必要がない。

 蓮さんの手が肩に触れた。鎖骨をなぞって、胸に降りた。——前回は服の上からだった。今回は最初から、トップスの裾に手を入れてきた。肌に直接、指の腹が触れた。

 乳首を摘まれて、甘い声が漏れてくる。目を閉じていたけど、鼻息が当たる距離で、じっと観察されているのがわかった。

 脱がされた。

 トップスが頭の上を通過した。ブラが露出した。蓮さんの目が——前回のように止まらなかった。見慣れた、とまでは言わない。でも、前回の「……すごいですね」はなかった。

 ホックに手がかかった。前回と同じ、触れたかどうかもわからない軽さで外れた。

 胸が零れた。

 蓮さんは見た。2秒くらい。それから——右の乳房に手を伸ばした。前回と同じ、下から持ち上げるように。前回と同じ力加減で。前回と同じ角度で親指が乳首をかすめた。

「ん……っ」

 声が出た。前回と同じ声が。

 蓮さんは前回の記録を再生しているみたいだった。私の体のどこが反応するか、もう知っている。マニュアルがあって、それを暗記して、実行しているような——迷いのない手つき。

 また乳首を摘まれた。人差し指と親指で。転がすように。前回と同じ。だけど前より強い。

「あ——っ」

 甲高い声。前回と同じ。

 蓮さんの指が下がった。前回はジーンズだった。今日はスカートだ。裾から手が入って、太腿の内側を滑り上がった。下着に触れた。

 ——前回は「気持ちいい?」と訊いてきた。今回は訊かなかった。

 指が下着の上から割れ目をなぞった。

「——っ」

 濡れている。もう。——蓮さんの指が触れる前から、たぶん。キスの時点で。いや——チャイムを押した時点で、もう体は準備を始めていたのかもしれない。

 下着がずらされた。指が直接触れた。

 前回は「すごく濡れてますね」と言った。今回は——無言で、指を滑り込ませた。

 1本。くちゅ、と音がした。

 前回と同じ角度で、前回と同じ場所に、指先が触れた。Gスポット。一発で。迷わない。

 とん、と押された。

「——っ、あ——」

 前回と同じ反応が返ってくることを、蓮さんは知っている。知った上で、確認作業のように指を動かしている。

 とん、とん、とん。同じ場所。同じ力。同じ角度。

「あっ、あっ——」

 もう片方の手がクリトリスに触れた。くるくると。前回と同じ。中と外、同時。

 ——前回は「気持ちいい?」「いい声ですね」と言ってくれた。褒める言葉があった。芝居のアドバイスと同じトーンで、私の体を褒めてくれた。

 今回は——黙っている。

 指が加速した。2本になった。中を押し広げて、深く、正確に——

「だめ——もう——っ」

 前回は「もうイきそう?」と訊いてきた。今回は訊かない。もう知っているから。この反応が出たら、あと数秒でイくことを。

 体が弓なりに反った。足の指が丸まった。

 イった。

 蓮さんの指を入れたまま、膣が痙攣した。きゅう、きゅう、と。

 ——前回と同じだった。タイミングも、強さも。蓮さんが設計した通りの絶頂。

 指が抜かれた。今回も太腿の内側で拭いた。

 蓮さんがサイドテーブルの引き出しを開けた。0.01ミリの個包装。前回と同じ。前回は1つだった。今回は——引き出しの中に、何個も入っているのが見えた。

 コンドームを装着した。慣れた手つき。

 蓮さんのスウェットが脱げた。下着が下がった。勃起したペニス。前回と同じサイズ。大翔ほど大きくはない。普通の大きさ。——でも形が整っていて、先端がうっすらと赤みを帯びている。

「入れますね」は——なかった。報告が省略されていた。

 脚を開いた。蓮さんが間に入った。先端が入り口に触れて——ぬるりと入ってきた。

「あ——」

 あの時と同じ感覚。異物感はない。痛みもない。体が自然に受け入れている。0.01ミリの膜が、やはりそこにある。大翔とは生で繋がっている体が、その薄い壁を拾う。

 蓮さんが動き始めた。

 ——違った。

 前回は、浅いストロークから始まって、徐々に深くなった。角度を少しずつ変えながら、私の体のどこが一番反応するかを探っていた。

 今回は——最初から、あの角度だった。

 前回見つけた角度。私が一番感じる角度に、最初の一突きから、正確に入ってきた。

「あ——っ、ん——」

 探す時間がゼロだった。マニュアルの1ページ目を開いて、手順通りに実行している。

 同じ深さ。同じ角度。同じ速度。——崩れない。

「あっ、あっ、あっ——」

 声がリズムに合わせて漏れる。前回と同じだ。同じ角度で、同じ声が出る。私の体は——蓮さんのマニュアル通りに反応している。

 ペースが変わった。加速した。——前回は途中で焦らしが入った。「もうちょっと、焦らしましょうか」と笑った。今回は焦らさなかった。焦らす必要がないと判断したのか、面倒だったのか。

 一直線に、頂点に向かっていく。

「あ——あっ——イく——」

 イった。2回目。挿入してから3分も経っていない。——前回より速い。蓮さんが学習したルートを最短で走っているから。

 蓮さんは止まらなかった。私がイっている最中に、ピストンを続けた。あの時と同じだ。痙攣している膣壁を、丁寧になぞる——いや、丁寧ではなかった。効率的に。快感の波を途切れさせずに、次の山に接続させるために。

「いい子ですね」は——なかった。前回のあの台詞。今回は省略された。

 蓮さんの呼吸が少しだけ乱れていた。でも基本的に整っている。汗はうっすらと額に浮いているが、崩れてはいない。

「あっ——あっ——あっ、あっ、あっ——!」

 3回目が来た。体の奥から突き上げてきて——白い光が散って——

 同時に、蓮さんが引き抜いた。

 あの時と同じ。中が空っぽになる感覚。目を開けた。蓮さんが私のお腹の上にまたがっていた。コンドームを外している。右手でペニスを握って——

 びゅっ。

 お腹に。

 びゅっ。

 左の胸に。

 びゅっ。

 右の胸に。

 びゅっ。びゅっ。

 鎖骨。顔——左の頬から鼻梁を横切って。

 ——あの夜と同じ場所に、同じ順番で、同じように。

 匂いが、鼻に入った。蓮さんの精液の匂い。薄い。——大翔のあの、部屋中に充満する匂いとは比べものにならないくらい、薄い。

「ティッシュ取りますね」

 あの時と同じ台詞。同じ手つきで、顔を拭かれた。胸を拭かれた。お腹を拭かれた。

 ——完璧だった。

 前回と同じ。いや、前回より速くて、前回より無駄がなかった。蓮さんは私の体を完全に覚えて、最短ルートで3回イかせて、予定通りに射精した。

 完璧。

 なのに——体の奥に、あの穴がある。

 大翔に抱かれた後は、体が壊れたみたいになる。立てない。歩けない。意識が朦朧として、全身が大翔の匂いに染まっている。あの匂いの中で溶ける。壊される。

 蓮さんに抱かれた後は——立てる。歩ける。頭がちゃんと動いている。

 壊されていない。

 前回はまだ「次こそは」と思えた。今回は——もう思えなかった。蓮さんのセックスは変わらない。変わらないことが、今回わかった。完璧なまま、永遠に足りない。

 美しい夕焼けは、今回も時間通りに終わった。

 シャワーを浴びた。蓮さんの部屋のシャワールーム。前回と同じボディソープの匂い。体を洗い流して、蓮さんのTシャツを借りた。下着はつけなかった。——どうせまた脱ぐかもしれないし、という気持ちではなく、単に面倒だった。体が緩んでいた。

 リビングに戻ると、蓮さんが「じゃ、俺も」と入れ替わりでシャワーに向かった。さっと浴びて戻ってきた。タオルで髪を拭いている。ハーフパンツにTシャツ。

「ビールと、さっきの赤と、どっちがいい?」

「ビールで」

 缶ビールを2本。プルタブを引く音が2つ重なった。ソファに並んで座った。さっきまで体を重ねていた場所。クッションがまだ少しへこんでいる。

 飲んだ。冷たい。シャワーの後のビールは、やけにうまかった。

 蓮さんと肩が触れている。薄着同士。Tシャツ越しに体温がわかる。——さっきまで中にいた人の体温を、こうして隣で感じている。不思議な距離感だった。

「——咲耶さん、次の仕事、何入ってるんですか」

「来月から連ドラの撮影。ちょい役だけど」

「おー、いいじゃないですか」

「蓮さんは?」

「10月に舞台。小劇場だけど」

 仕事の話。普通の会話。事後の二人が、普通に話している。——これが、蓮さんとの関係だった。激しくもなく、重くもなく、ただ心地よい温度で繋がっている。

 大翔との事後とは全然違う。大翔の後は、会話なんてできない。息を整えるので精一杯で、言葉が出てこない。大翔の胸の上で、匂いの中で、溶けたまま眠りに落ちる。

 蓮さんの隣では——会話ができてしまう。頭が動いてしまう。

 それが物足りなさの正体だと、もう知っている。

 ぴんぽーん。

 チャイムが鳴った。

 体が跳ねた。——誰? こんな時間に。23時を過ぎている。

 蓮さんは——驚かなかった。

「あ、ごめん。言い忘れてた」

 立ち上がって、インターホンのモニターを見た。

「実はこの後、友達何人かと飲む約束してて。——咲耶さんもどう?」

「え——」

「気楽な飲み会だから。嫌なら帰っても全然いいけど」

 蓮さんの声は穏やかだった。いつもと同じ。選択肢を残す言い方。断る余地がある。

 でも——23時過ぎに、蓮さんの部屋から一人で帰る? タクシーを呼んで、蓮さんのTシャツを着たまま? それとも服を着替えて?

 面倒だった。体が緩んでいて、ビールが回っていて、ソファから立ち上がるのが面倒だった。

「——じゃあ、少しだけ」

「よかった」

 蓮さんがオートロックを開けた。

 玄関のドアが開いた。

 男が入ってきた。——1人じゃなかった。2人、3人——次々と。後ろから女が1人。

 5人。男4人と女1人。

 全員が——にやにやしていた。

 リビングに入ってきて、私を見た。蓮さんのTシャツ1枚の私を。髪がまだ少し濡れている私を。

「おー、蓮、やるじゃん」

 大柄な男が笑った。低い声だった。

「まあまあ。座ってよ」

 蓮さんが酒を出した。ビール、ハイボールの缶、ワイン。テーブルの上がにぎやかになった。

 自己紹介があった。名前は——タカさん、リョウ、ユウキ、シンさん。女の人はマリカ。業界の人たちらしい。蓮さんの友達。カメラマンとか、制作とか、モデルとか。

 ユウキだけが、妙にそわそわしていた。私の顔をちらちら見ている。目が合うとすぐ逸らす。——知っている。このタイプを知っている。グラビアの撮影でも、イベントでも、ファンの中にこういう人がいる。

 マリカは、最初から私の胸を見ていた。蓮さんのTシャツは、大きめだったけれど——ブラをつけていないHカップの輪郭は、隠しきれなかった。

「へぇ——」

 マリカの口元が歪んだ。何か言いたそうにして、ビールを飲んだ。

 飲み会は——にぎやかだった。タカさんがよく喋った。業界の裏話。誰々の撮影が大変だった話。リョウは無口で、隅のほうでビールを飲んでいた。シンさんは——ほとんど喋らなかった。端に座って、グラスを傾けている。目が据わっていた。

 私は多めに飲まされた。「咲耶さん、もう1杯」「遠慮しないで」「ほら、空いてるよ」。気がつけばビールが3本目になっていた。酔いが回っている。頬が熱い。思考がゆるい。

 蓮さんがさりげなく立ち上がって、テーブルの上のスマホを集めた。

「ごめん、ちょっとだけ。写真撮られるとまずいでしょ。咲耶さん、芸能人だから」

 保護しているように聞こえた。——私のために。

 全員のスマホが、キッチンのカウンターの上に並べられた。画面が伏せてある。

「さて」

 誰かが言った。——タカさんだった。

「そろそろ——楽しいことしようか」

「え?」

 私の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。

 楽しいこと? 何が? カードゲーム? 映画?

 ——違う。

 空気でわかった。

 全員の目が、私を見ていた。さっきまでのにやにやが、別の色に変わっていた。

 蓮さんを見た。蓮さんは——微笑んでいた。穏やかに。台本の読み合わせの時と同じ顔で。

「大丈夫。みんないい人だから」

 蓮さんが私の肩に手を置いた。

 ——あ。

 蓮さんの唇が、私の唇に触れた。

「ちょっと——!」

 みんなの前で。みんなが見ている前で。蓮さんが、私にキスをしている。

 振り払おうとした。でも——体が動かなかった。酔いのせいだ。さっき3回イった体のせいだ。体がすぐに従ってしまうせいだ。蓮さんの唇が触れた瞬間に、さっきの快感の記憶が体を走って——力が抜けた。

 蓮さんの手が胸に触れた。Tシャツの上から。

 周りの距離が、縮まっていた。誰かの手が太腿に触れた。——蓮さんじゃない。別の手。知らない手。

 Tシャツの裾が持ち上がった。蓮さんの手だった。腕を上げた。頭の上を布地が通過して——

 引っかかっていた布地が勢いよく外れて、胸が大きく揺れて露出した。

 部屋が——静まって、全員の目が、止まった。

* * * * * * * * *

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「——……大丈夫?」

 声が聞こえた。

 近い声だった。女の声。タバコの匂いが混じっている。

 目を開けた。天井が見えた。蓮さんの部屋の天井。——間接照明が、ぼんやりと白い光を落としている。

 体が動かなかった。

 動かない——というよりも、動かし方を忘れたみたいだった。指先はかすかに震えている。脚は開いたまま。閉じる力が残っていない。

 横に——マリカが座っていた。片づけをしていたらしい。テーブルの上のグラスや缶を、ゴミ袋にまとめている。

「シャワー浴びなよ。立てる?」

 マリカの声は——優しかった。さっきまでの声とは違う。でも目は笑っていた。心配しているようで、していない。品定めの目。私の体をじっと見ている。

「蓮さんは?」

「出かけてくるって」

 ——蓮さんはいない。男たちもいない。部屋にはマリカと私だけだった。

 体を起こそうとした。腕が震えた。腹筋に力が入らなかった。

 マリカが手を貸してくれた。——爪のない指が、私の腕を掴んだ。

「ほら、ゆっくり」

 立ち上がった。膝が笑っている。脚の間が——ひどかった。自分でわかる。

 バスルームに入った。鏡は見なかった。

 シャワーを浴びた。熱い湯を体に当てた。——洗い流した。全部。何もかも。

 髪からお湯が流れていく。体にまとわりついていたものが、排水口に吸い込まれていく。

 体は洗えた。

 でも——匂いが残っている気がした。シャワーを浴びたのに。石鹸で何度も洗ったのに。鼻の奥に、素肌に、何かが——貼りついている。

 バスルームを出た。蓮さんのTシャツを着た。下着を穿いた。

 マリカがタクシーを呼んでくれていた。

「もう来るって。マンションの前に」

「……ありがとう」

「うん」

 マリカが私を見た。長い目だった。

「またね、咲耶ちゃん」

 何を「また」なのか、わからなかった。わかりたくなかった。

 靴を履いた。ドアを開けた。廊下に出た。エレベーターのボタンを押した。

 蓮さんの部屋のドアが、後ろで閉まる音がした。

 タクシーの後部座席。

 窓の外を街灯が流れていく。明け方の代々木。人通りが少ない。

 スマホを出した。大翔のメッセージを開いた。

 最後のやり取りは——3日前。

『ごめん。寝てた。今日も朝から現場。また電話するな』

 返信を打とうとした。

 指が——動かなかった。

 何を送ればいいかわからない。「おやすみ」? 「今日は楽しかったよ」? 「ちょっと疲れた」?

 全部、嘘だ。

 全部嘘なのに、どの嘘を選べばいいのかわからなかった。

 スマホを膝の上に置いた。画面が暗くなった。

 窓の外が滲んでいた。——泣いているのかと思ったけれど、涙は出ていなかった。ただ、焦点が合わないだけだった。

 匂いがした。

 シャワーを浴びたのに。石鹸で何度も洗ったのに。

 ——蓮さんの匂いじゃない。蓮さんの匂いは、もう消えている。あの清潔で計算された香水の残り香は、いつも通りシャワーで落ちた。

 残っているのは——別の匂いだった。鼻の奥に貼りついて離れない。何の匂いなのか、わかるような、わからないような。ただ——不快であることは間違いなかった。

 大翔の匂い。あの重くて甘い、カルキみたいな匂い。首筋に顔を埋めた時に鼻の奥に広がる、あの匂い。

 ——今、ここにはない。

 マンションに着いた。タクシーを降りた。オートロックを開けて、エレベーターに乗って、部屋に入った。

 靴を脱いだ。照明をつけなかった。暗いまま、ベッドに倒れ込んだ。

 枕に顔を埋めた。柔軟剤の匂いしかしない。大翔の匂いはしない。誰の匂いもしない。

 体が——震えていた。寒いわけじゃない。9月の夜は、まだ暖かい。

 スマホが光った。枕の横で。

 蓮さんからだった。

『今日はありがとうございました。またいつでも来てください』

 既読をつけた。返信はしなかった。

 大翔のメッセージ画面をまた開いたけど、何も打たずに閉じた。

 そして目も閉じた。

 ——大翔に会いたい。

 今すぐ。今すぐ大翔の匂いの中に帰りたい。大翔の腕に包まれて、壊されたい。壊されて、何もわからなくなりたい。

 でも——大翔に会ったら。大翔の目を見たら。大翔の匂いを嗅いだら。

 私はきっと——泣いてしまう。

 何があったか、聞かれるだろう。大翔は優しいから、無理には聞かない。でも目を見ればわかる。私の目が——もう、前の私の目じゃないことが。

 蓮さんのメッセージの通知が、暗い部屋でまだ光っていた。

 あの部屋で何があったのか。「楽しいこと」の中身が何だったのか。

 私は——誰にも言えない。大翔にも。自分にも。

 体の奥に、知らない匂いが残っている。

 明日になれば消えるだろう。全部消える。

 ——大翔の匂いだけが、いつまでも消えない匂いだ。

 それを知っている。知っているのに——今夜、ここにあるのは、大翔じゃない匂いだった。

 枕に顔を押しつけた。声を殺して、泣いた。

六 大翔

 府中のマンションの706号室。9月の夜。照明はつけていない。

 ソファに座って、缶ビールを膝の上に載せたまま、白い天井を見ている。窓を開けていた。夏の終わりの湿った風が、カーテンを微かに膨らませては戻す。虫の声が聞こえる。それ以外は、何も聞こえない。

 もう3週間になる。

 咲耶とあの夜を過ごしてから——もう、3週間。

 2ヶ月半ぶりだった。久しぶりに、この部屋に咲耶が来た。シャンプーと汗が混じった匂いが、ドアが開いた瞬間に流れ込んできた。あの匂い。忘れかけていた。2ヶ月半という時間は——匂いの記憶を薄くするには十分だった。

 抱いた。3回。

 1回目。正常位。いつもと同じだ。咲耶の脚を開いて、ゆっくりと入れた。温かかった。膣壁が俺のペニスを締め付けて、咲耶が小さく喘いだ。いつもと同じだ。同じはずだった。

 ——獣が、起きなかった。

 いつもなら、ここで消えるのだ。俺が。理性が溶けて、視界が狭くなって、咲耶の体だけが世界のすべてになる。壊したいほど愛おしくて、止められなくなって、腰が勝手に加速して——そうなるはずだった。4年間、ずっとそうだった。

 あの夜は——静かだった。

 腰を動かしている自分を、もうひとりの自分が見ていた。角度を計算している。深さを調整している。咲耶の声を聞きながら——「ここで少し速くすれば」と考えている。考えている時点で、もう違う。獣は考えない。獣はただ、咲耶を貪る。

 2回目も。3回目も。

 獣は目を覚まさなかった。俺は——3回とも、冷静なまま射精した。情けなく。

 そしてもうひとつ——体が勝手にやったことがある。

 ゴムをつけた。

 3回とも。指がベッドサイドの引き出しを開けて、パッケージを破いて、装着した。意識していなかった。2年近くまともに使っていなかったものを——体が勝手に選んだ。

 理由は、あとからわかった。

 先月、別の女の肌に触れた。この指で。この掌で。環の——もちっとした白い肌を撫でて、環の中に入って、環の体温を知った。その記憶が、指の腹に残っていた。残っているから——咲耶の肌に生で触れることを、体が許さなかった。ゴム越しでなければ、咲耶に申し訳がないと——体のほうが先に、判断した。

 言葉にすれば「汚れた」ということだったのだろう。でもあの夜は、その言葉すら浮かばなかった。ただ——もやもやしていた。胸の奥で、形にならない重さが澱のように沈んでいた。

 咲耶は気づいたのだろうか。ゴムのことを。獣が起きなかったことを。

 朝、いつもと同じように笑っていた。「また会えるの楽しみにしてる」と言った。——あの笑顔が、本物だったのか作り物だったのか、今でもわからない。

 缶ビールが、ぬるくなっていた。

 膝の上で結露した水滴が、ジーンズに小さな染みを作っている。いつからこうしていたのか。時計を見た。23時を過ぎていた。

 スマホを手に取った。咲耶からのメッセージは——今日はなかった。昨日も。おとといは『お休み』の3文字だけ。

 画面をスクロールした。指が——止まった。

 環とのやりとり。9日前。

『大翔さん、近くにいたりします? 恵比寿で暇してて〜』

 俺が返したのは——なんだったか。

『今渋谷。仕事終わり』

『えー!近い!来ます?うち』

 それだけだった。考えた記憶がない。ポスプロスタジオを出て、恵比寿方面に歩いて、気づいたら環のマンションのインターホンを押していた。あの夜——咲耶との噛み合わない夜から、まだ2週間も経っていなかった。

 流れだった。

 環の部屋のドアが開いた時の——フルーツ系のシャンプーの甘い匂いを、今でも覚えている。

「あ、来てくれた。今日はごはん食べました?」

 Tシャツにショートパンツ。部屋着のまま。ウェーブのロングヘアを片方の肩にまとめて、化粧は落としている。——前回来た時は気合いの入ったワンピースだった。今回は違う。2回目だから、もう飾る必要がないのだろう。

 その落差が——なぜか、少しだけ安心した。

「食べてない」

「じゃあ何か作ろっか。……嘘、作れない。コンビニ行きます?」

「いい。腹減ってない」

 環がキッチンに消えた。冷蔵庫が開く音。戻ってきた時には、缶ビールを2本持っていた。1本を俺に渡して、自分の分をぷしゅ、と開ける。

 ソファに並んだ。前回と同じ小さなソファ。肩が触れる距離。環の体温が——袖越しに伝わってくる。

 ビールを飲んだ。冷たい。喉が鳴った。空腹の胃に沁みた。

「大翔さん、顔つき変わりましたね。前より——疲れてません?」

「……そうか?」

「疲れてるっていうか——なんだろ。困ってる顔? してますよ」

 環の目が——一瞬だけ変わった。おバカっぽい丸い目の奥に、読む目が覗く。観察する目。心理学専攻の目。——すぐに消えた。でも、見えた。

 否定しなかった。

 環はビールをひと口飲んで、缶をテーブルに置いた。俺の腕に、指先だけ、触れた。袖の上から。軽い。——でも、意味がある触れ方だった。

「……キスしていいですか?」

 俺は何も言わなかった。言わなかったことが——答えだった。

 環の厚い唇が、触れた。下唇がもちっと吸いつく。柔らかくて、ビールの冷たさが少しだけ残っている。そこから——じわりと、環の体温に変わっていく。

 舌が入ってきた。長い。前回よりもゆっくりと、探るように。俺の舌に絡みつく。根元まで巻きつく。唾液が混ざる。——甘い。ビールの苦みの奥に、環の唾液の甘さがあった。

 環の手が俺のベルトに伸びた。キスを続けながら。バックルを外す。ボタンを外す。ジッパーを下ろす。手慣れている。でも——焦っていない。ひとつひとつ、丁寧に。

 下着の上から、指が輪郭をなぞった。

「……もう硬いですよ」

 環が唇を離して、囁いた。吐息が唇にかかる。

 それから——環は、ゆっくりと俺の脚の間に降りた。

 ソファの前に膝をつく。上目遣い。丸い顔。厚い唇。大きな目が——俺を見上げている。

 下着を下ろした。勃起したペニスが——環の顔の前に現れた。

 環の目が少し見開かれた。知っているはずなのに、毎回驚くような顔をする。——それが演技なのか本当なのか、環という女は、いつもわからない。

 舌が伸びた。

 先端が細い。尖っている。その先端が——竿の根元に触れた。温かい。唾液の湿り気。舌の柔らかさが、皮膚の上を滑っていく。根元から、裏筋に沿って、ゆっくりと。ゆっくりと。一本の線を引くように。

 亀頭に到達した。ぐるり、と一周する。冠の縁を舐めて、裏側のくぼみに舌先を押し込む。ちゅ、と音を立てて吸い上げた。

 背筋が痺れた。指が、ソファのクッションを握った。

「ねえ大翔さん」

 環が口を離した。唾液の糸が、唇とペニスの間に一本、光っている。

「彼女さんと、最近会えた?」

「……この前、久しぶりに会った」

「どうだった?」

 答える前に——環がまた咥えた。亀頭をすっぽりと口に含んで、舌で包み込むように。ぢゅる、と吸い上げた。長い舌が——口の中で渦を描いている。裏筋を擦り上げながら、亀頭を回転するように舐め回す。

 同時に、片手が竿の根元を握っている。ゆっくりとした上下運動。もう片方の手は——陰嚢を包んで、指の腹で転がすように。

 答えが、出てこなかった。

 環が口を離した。

「……ふーん。そっか」

 舐めながら、上目遣い。俺の沈黙を——そのまま受け取った顔。「うまくいかなかったんだな」と、声に出さずに読み取っている顔。

「大翔さんって、嘘つけない人だよね。体が正直すぎる」

「……どういう意味だ」

「だってこうやってしてる時——」

 環が竿をゆっくり舐めた。根元から先端まで。見せつけるように。

「——彼女さんのこと考えてるの、わかるもん。前もそうだった」

 否定できなかった。環の舌が俺の体を舐めている間も——頭の片隅に、咲耶がいる。咲耶の膣の締め付け。咲耶の喘ぎ声。咲耶の匂い。——環の口の中にいるのに、比較している自分がいる。

「でも今日は——前と違う。なんか……追い詰められてる感じ」

 環がそう言って——亀頭を深く咥えた。喉の奥まで。舌が根元を巻き上げて、ぢゅるっ、ぢゅるっ、と音を立てた。吸引の圧が上がった。手のストロークが加速した。

「——っ」

 腰が浮いた。限界が——近い。環の口が熱い。舌が巧い。唾液がたっぷりと竿を濡らして、摩擦が消えて、ぬるぬると——根元まで飲み込まれる感覚。

「——環、出る——っ」

 環は離さなかった。

 深く咥えたまま——吸い上げた。喉がきゅっ、と締まって、亀頭を圧迫した。

 出た。

 どくん。どくん。どくん。どくん——。

 口の中に。脈動が——長かった。6回。7回。精液が環の口に注がれていく。量が多い。いつもと変わらない。咲耶の中に出す時と同じ量が——環の喉を通って、胃に落ちていく。

 環の喉が動いた。ごくり。ごくり。——飲んでいる。全部。

 脈動が収まった。環がゆっくりと口を離した。ぬるり、と。

 唇の端に——白い液が、一筋だけ残っていた。

「……わ、すごい」

 環の声が——かすれていた。驚きが混じっている。唇を舌で舐めて、残った白い筋を回収した。

「こんなに出るの? ……っていうかこの匂い、すごいね。濃い」

 鼻をくんくんと動かした。口元を手の甲で拭う。——カルキに似た、粘度の高い匂いが、環の唇から漂ってくる。

「……すまん」

「謝んないでよ。……全部飲んだし」

 環が笑った。手の甲で口元を拭いながら。笑顔はいつものおバカっぽい笑顔だったが——目の奥に、「すごいものを体験した」という光が残っていた。

「彼女さん、これ毎回受け止めてるんでしょ? ……すごいなあ。羨ましい」

 ——羨ましい。

 その一言が、胸のどこかに落ちた。重力みたいに、静かに。

 環がまた俺のペニスに口を寄せたのは、それから2分も経っていなかった。

 萎えかけていたそれに、舌先がちろりと触れる。射精直後の過敏な亀頭に——環の舌の温かさが、じんわりと染み込んでくる。

「ねえ。大翔さんは——自分のこと、汚いって思ってる?」

 竿をゆっくり舐めながら——訊いた。

 手が止まった。環の舌だけが、根元から先端を、行ったり来たりしている。ねっとりと。急がない。

「……なんでそう思う」

「わかるよ。私も同じだから」

「……環が?」

 環が口を離した。俺を見上げた。上目遣い。——甘さが消えていた。素の目だった。

「私ね、彼氏いたことあるの。いた時に——別の人としちゃったことある。何回も」

 また咥えた。ゆっくりと。舌が裏筋を撫でている。話しながら——手と口は止まらない。

「その時ね、自分のこと汚いって思った。でも——止められなかった。寂しかったから」

 ——刺さった。

 環の過去の話なのに——俺の話を聞かされている気がした。寂しいから別の女と寝た。寂しいから環の部屋に来た。同じだ。

「大翔さんも——寂しいんでしょ?」

「……かもしれない」

 声が小さかった。認めるのが——初めてだった。寂しい。その言葉を、自分の口から出したのは。

 環のペースが上がった。亀頭を深く咥えて、舌と唇で吸い上げながら、竿を手でしごく。ぢゅるっ、ぢゅるっ。音が変わった。粘膜が擦れる、湿った音。唾液が竿を伝って、環の手を濡らしている。

 硬くなっていた。完全に。

 限界が近づいた——その瞬間、環が口を離した。

 サイドテーブルからコンドームを取り出した。パッケージを歯で破って——中身を唇にくわえた。

 口で装着した。

 厚い唇がゴムのリングを押し広げながら、亀頭から根元へ滑り降りていく。ゴム越しに——舌が竿の形をなぞっている。根元まで到達して、ぎゅっ、と唇で根元を締めた。

 環が顔を上げた。

 Tシャツを脱いだ。一瞬で。ブラはしていなかった。——最初からつけていなかったのだ。Eカップの胸が溢れた。乳首がもう硬くなっている。ショートパンツも脱いだ。下着も。

 裸の環が——ソファに座った俺の腰の上にまたがった。

 騎乗位。小さなソファが——二人の体重で沈んだ。

 入り口に、先端が触れた。環の手がペニスを掴んで、位置を合わせた。

 腰を——沈めた。

「ん——っ……」

 環の中に入った。ゴム越し。でも——温かさが伝わってくる。膣壁が俺の形に沿って広がっていく。咲耶のような異常な締め付けではない。もっと柔らかい。受け入れる体だった。

 環が腰を動かし始めた。ゆっくりと。前後に。小さな円を描くように。

「彼女さんとした時——何が違ったの?」

 腰を動かしながら、環が訊いた。Eカップの胸が、動きに合わせて小さく揺れている。汗が首筋を伝い始めていた。

「……噛み合わなかった」

「噛み合わないって——体が? 気持ちが?」

「……両方だ」

 環の腰がぐりん、と回った。角度が変わった。ペニスの先端が、膣壁の別の場所を擦る。——俺の反応を読んでいる。どこで声が漏れるか、どの角度で腰が浮くか、試しながら探っている。

「大翔さんの中に——何かいるよね。彼女さんとの時だけ出てくるやつ」

 心臓が跳ねた。——環にも見えるのか。あの獣が。

「それが出てこなかったんだ。……それが一番つらいんでしょ」

「——ああ」

 声が掠れた。環の腰が動いている。ぱん、ぱん、と音が鳴り始めた。環の尻が俺の腰を叩いている。Eカップが上下に揺れている。汗が——環の鎖骨を流れて、胸の谷間に落ちていく。

「……ねえ。大翔さん。どうしたいの? 彼女さんと」

「……戻りたい。前みたいに」

「前みたいにって——どんな風に?」

「……わかんない。ただ——」

 環の腰が、ゆっくりになった。深く沈んで、止まった。奥まで入っている。環の体温がゴム越しに伝わってくる。環の目が——上から、まっすぐ俺を見ていた。

「——触れて、壊したくなるくらい好きだった。それが——今は」

 言葉が、途切れた。喉の奥で何かが詰まった。感情なのか、射精の衝動なのか、わからなかった。

 ——環の顔が、変わった。

 おバカっぽさが消えた。質問する目が消えた。観察する目が消えた。

 残ったのは——剥き出しの、女の目だった。

 環が腰を叩きつけ始めた。

 ぱんっ!ぱんっ!ぱんっ!——さっきまでとは別の人間の動きだった。腰が俺の腰を打ちつける。衝撃が腹の底に響く。Eカップが暴れるように揺れる。環の太腿の筋肉が——しなやかに、だが容赦なく、俺の体を上下に貫いている。

 会話が消えた。環の口から漏れるのは——もう、言葉ではなかった。

「——あっ、あっ、あっ——はっ——あ——っ」

 低い。太い。喉の奥から絞り出されるような声。甘さがない。演技がない。環という女の——鎧の下にあった、生の声。

 環が達した。

 膣がぎゅう、と締まった。背中が反った。目が閉じて——唇が震えて——「あっ——」と、短い悲鳴が漏れた。

 ——止まらなかった。

 環の腰が動き続けている。達したばかりの体で。痙攣しながら。膣が不規則に収縮して、俺のペニスを内側から揉みしだいている。

「——環——っ、もう——」

 俺も出た。2回目。ゴムの中に。どくん、どくん——精液がゴムを膨らませていく感覚。射精の快感が——全身を駆け抜けた。

 ——なのに、環は止まらなかった。

 射精直後だった。亀頭が——悲鳴を上げていた。過敏になった神経の上を、環の膣壁が擦り続けている。快楽が裏返った。甘さが消えて、焼けるような刺激だけが残った。亀頭の先端に——針を刺されているような、鋭い痛みが走った。

「——っっ、環——抜い——」

 腰が逃げようとした。反射的に。だが環の体重が——俺の腰を押さえつけていた。環の太腿が俺の腰を挟んで、締め上げている。逃げ場がない。

「——まだっ」

 環が叫んだ。目を開けた。涙が滲んでいた。でも——止まる気がない目だった。

 快楽なのか苦痛なのかわからなくなった。全身が痙攣していた。亀頭が焼けている。膣壁が——射精で膨らんだゴムごと、俺を搾り続けている。視界の端が白くなった。意識が——遠ざかりかけた。

 環が——もう一度、達した。

「あ゛ぁ゛あ゛——っっ!!」

 喉が壊れたような声だった。濁った、低い、長い——叫び。体を大きく震わせて——俺の胸の上に、崩れ落ちた。

 汗ばんだ肌が俺の肌に貼りついた。環の心臓の音が——俺の肋骨を通して、直接聞こえてくる。速い。不規則。

 しばらく——動けなかった。

 環が顔を上げた。髪が汗で張りついている。丸い顔が紅潮して——さっきまでとは別人みたいだった。目が潤んでいた。涙なのか汗なのか——もう区別がつかない。

 長い舌が——伸びた。

 俺の顎を舐めた。ざらりと。唾液が——肌の上に筋を引いた。頬を舐めた。こめかみを舐めた。耳たぶを——含んで、ちゅ、と吸った。耳の裏を舐めた。ねっとりと。犬みたいに。いや——犬よりも丁寧に。隅々まで。

 そして——唇を重ねた。

 深かった。環の舌が口の奥まで入ってくる。ゆっくりと。舌と舌が絡み合う。環の唾液の甘さと——かすかに残った精液の塩気が混ざっている。長いキスだった。息が苦しくなるまで。

 環が唇を離した。糸が引いて切れた。

「……ふ」

 環が——笑った。半分泣いているような。半分壊れているような。

「……ねえ大翔さん。最後、お願いがあるの」

 声がかすれていた。素の声。

「何だ」

「彼女さんにするみたいじゃなくていい。大翔さんのしたいようにしていいから。——思いっきり、きて」

「……」

「最後だけは——後ろからして。動物みたいに。全部出して」

 ソファから環を抱き上げた。軽い。咲耶ほどではないが——小さな体だった。環が俺の首に腕を回した。数歩。ベッドに降ろした。

 ゴムを替えた。環が口で装着した。——もう手順は体が覚えていた。

 環を仰向けにした。

 脚を開かせた。膝の裏に手を入れて、ゆっくりと。環の太腿が——震えていた。さっきの豹変で体力を使い切ったはずなのに、まだ俺を受け入れようとしている。

 入り口に先端を当てた。ゴム越しに——環の熱が伝わってくる。濡れている。愛液がゴムの表面を滑らせて、亀頭が——するりと入り口に嵌った。

 押し込んだ。ゆっくりと。

「——ん……っ」

 環が息を呑んだ。さっきの豹変で声を出し尽くしたあとの——枯れた、薄い声。でも、その薄さが逆に生々しかった。演技する余裕がもう残っていない。漏れてくるのは全部、素の反応。

 正常位。俺がリードする体位。

 奥まで入れた。環の膣壁が——俺の形に沿って広がっていく。騎乗位の時は環が角度を支配していた。今度は俺が選ぶ。腰の角度を——少しだけ上向きに変えた。亀頭の先端が、膣壁の上側を擦る位置。

「——あっ」

 環の体がびくりと跳ねた。——ここだ。

 ゆっくりと引いて、同じ角度で押し込んだ。浅く。同じ場所を、同じ圧で。繰り返す。

「あ——、あっ——、そこ——っ」

 環の手がシーツを掴んだ。目を閉じている。眉根が寄っている。——感じている顔だった。さっきまでの余裕がない顔。攻められる側の顔。

 5年間で咲耶の体を覚えたように——俺は女の体を読む力を持っている。獣が起きなくても、技術はある。40歳の男の技術。どこをどう突けば声が変わるか。どの角度で腰が浮くか。それを——環の体で、ひとつずつ確かめていった。

 ペースを上げた。浅いストロークから——深く。環の体が沈み込むたびに、ベッドのスプリングが軋んだ。ぱん、ぱん、と肉がぶつかる音が加速していく。

「あっ——あっ——あっ——大翔さ——ん——っ」

 環の脚が俺の腰に巻きついた。踵が背中に当たる。引き寄せている。もっと深く、と体が求めている。口では何も言っていないのに——環の脚が、腰が、膣が、全部で「もっと」と言っていた。

 環の中が——変わり始めた。膣壁がきゅう、と締まる周期が短くなっている。呼吸が浅くなっている。目が——開いた。潤んでいた。

「——やば——、大翔さん——っ、それ——」

 腰を密着させた。恥骨でクリトリスを圧迫しながら、奥を突く。二重の刺激。環の体が——跳ねた。

「——っっ、あ——っっ!」

 環が達した。1回目。背中がベッドから浮いた。膣が——不規則に痙攣して、俺のペニスを内側から揉みしだいた。環の口が開いて——声にならない息が漏れた。太腿が震えている。

 止まらなかった。

 環の痙攣が収まる前に——腰を動かし続けた。達した直後の、過敏になった体に。

「——っ、ま、待っ——まだ——」

「待たない」

 さっき環に言われたことを——そのまま返した。環が俺を搾り取る時に止まらなかったように。俺も止まらない。

 角度を変えた。環の脚を肩に乗せた。深くなる。屈曲位に近い角度。環の体が折り畳まれて——奥が、さらに近くなった。

「あ——っ、深——っ、そこ——だめ——っ」

 だめ、と言いながら——環の膣が、俺を飲み込もうとしている。締め付けが強くなっている。だめ、と言いながら——腰が迎えに来ている。

 環の目から——涙が零れた。快楽の涙だった。泣いているのではない。体が処理しきれない刺激を、涙として排出している。

 加速した。ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ——。環のEカップが激しく揺れる。涙が伝って、シーツに染みを作った。

「——あ゛っ——あ——っ、い——っ——」

 環が——もう一度、達した。2回目。さっきより深い。体が大きく弓なりに反って、痙攣が——長く続いた。喉の奥からひきつったような音が漏れて、それが——しゃがれた呼吸に変わって、消えた。

 俺は——まだ出していなかった。

 環の痙攣が——ゆっくりと収まっていく。涙の筋が頬に残っている。目が——とろんと、焦点が合っていない。2回連続で達した体が——弛緩している。

「……大翔さん……すごい……」

 掠れた声。ほとんど息だった。

「……後ろ」

 環が——残った力を振り絞るように、言った。

「後ろから——して」

 環が——ゆっくりと体を返した。腕が震えていた。2回達した後の体で、四つん這いになるのがやっとだった。膝がベッドの上で滑る。それでも——尻を持ち上げた。

 もちっとした白い尻が——目の前にあった。

 汗で光っている。Eカップの胸から腰のくびれを経て、丸く張った尻へ。グラビアで何万人もの男が見てきたラインを——今、俺だけが触れている。掌で包むと、指が沈む。柔らかな弾力。汗で滑る肌。背中の真ん中を——汗が一筋、背骨の溝に沿って、尾てい骨まで流れ落ちていた。

 両手で環の尻を掴んだ。指が肉に食い込む。環が「ん——っ」と小さく声を漏らした。

 入り口に先端を当てた。環の愛液がゴムの表面をぬるりと濡らす。——後ろからだと、角度が変わる。さっきまで正常位で俺が支配していた膣の内壁の、別の面に——亀頭が触れる。

 押し込んだ。一気に。奥まで。

「あ゛——っ!」

「——っぐ……」

 俺の口からも——声が漏れた。深い。正常位とは違う角度で膣壁が竿を包んでいる。ゴム越しでも——奥の壁を押し潰している感覚が、亀頭から腰の芯まで突き抜けた。

 環の背中が弓なりに反った。肩甲骨が皮膚の下で浮き上がった。腕が——崩れかけた。シーツを掴んで、なんとか体を支えている。

「——っ、おく——っ、当たって——」

「……ああ。当たってる」

 低い声で答えた。環の膣の奥が——亀頭を押し返している。子宮口の硬さ。その手前の柔らかい壁が、ゴム越しに俺の形を覚えようとしている。

 環の声が——震えていた。2回達した後の過敏な体に、奥を突かれている。もう余裕がない。演技のフィルターが全部剥がれた後の——素の環が、四つん這いで、俺に突かれながら、声を漏らしている。

 動物みたいに、と環は言った。

 だから——そうした。

 リズムを捨てた。計算を捨てた。環の腰を掴んで——引き寄せながら、叩きつけた。

 ぱんっ。

 乾いた音。環の尻と俺の腰がぶつかる音。環の体が前にのめる。引き戻す。また叩きつける。

 ぱんっ。ぱんっ。ぱんっ。

 間隔が詰まっていく。環の尻の肉が、衝撃のたびに波打つ。汗が飛ぶ。環の背中に、俺の汗が落ちる。二人の汗が——混ざっている。

「あっ——あっ——あっ——あ——っ——」

「——く……っ、……環——」

 環の声と、俺のうめきが重なった。環の声はピストンのリズムに合わせて途切れる。一突きごとに——腹の底から押し出されるような、しゃがれた喘ぎ。甘さがない。喉がもう枯れている。それでも声が止まらない。体が勝手に出している。

 俺も——歯を食いしばっていた。環の膣が突くたびにきゅっと締まって、亀頭を噛む。その圧が——気持ちよすぎて、喉の奥からうめきが漏れる。

「——っ、ぅ……っ、くそ——」

 環の腕が崩れた。上半身がベッドに落ちた。顔がシーツに押しつけられている。尻だけが——俺の手に掴まれて、持ち上げられている。

「んぁ——っ、あ——っ、あ——ひっ——」

 シーツに押しつけられた環の口から——くぐもった声が漏れ続けている。顔を横に向けた。目が閉じている。口が半開きで、唾液がシーツに染みを作っている。

 この角度が——一番深かった。

 環の膣が——変わった。痙攣の前兆。不規則に締まって、緩んで、また締まる。波が来ている。3回目の波が。

「——あ゛——っ、だめ——また——くる——っ——」

「——俺も……っ、環——もう——」

 環の手がシーツを引きちぎるように掴んだ。背中が反った。白い肌に——鳥肌が立っていた。

 俺も限界だった。下腹の奥から——熱い塊がせり上がってくる。我慢する理由がなかった。環が「全部出して」と言った。だから——全部出す。

 加速した。最後の加速。ぱんっぱんっぱんっぱんっ——連続音。環の体が前後に揺さぶられる。髪が背中で暴れている。シーツがぐちゃぐちゃに丸まっている。

「あ゛あ゛——っっ、い——いぐ——っっ!」

「——っっ、環——!」

 環が達した。3回目。膣が——ぎゅうっ、と俺のペニスを締め上げた。全身が痙攣して、背中が大きく跳ねて——喉の奥から、壊れたサイレンみたいな音が漏れた。

 同時に——出た。

「——ぅ、あ゛——っ」

 3回目。ゴムの中に。どくん。どくん。どくん——。腰が環の尻に押しつけられたまま、止まった。精液がゴムを内側から膨らませていく感覚。環の膣の痙攣が——射精の脈動と重なって、ぐちゅ、ぐちゅ、と湿った音を立てた。

「——は……っ、は……っ……」

「……ん……っ……」

 二人の荒い息が——重なった。

 脈動が——収まった。

 環の体が崩れた。うつ伏せに。支えを失った腰が——ベッドに落ちた。俺はその上に覆いかぶさるように倒れ込んだ。

 重い。85キロの体重が環の背中にかかっている。でも——環は何も言わなかった。荒い息だけが聞こえていた。

 環の背中に——顔を埋めた。

 汗の匂いがした。甘いシャンプーの残り香。その下に——体温で蒸された、生の匂い。女の匂い。セックスの匂い。混ざり合って、環の背中の肌から立ち上っていた。

 心臓の音が聞こえた。俺のか、環のか、わからなかった。重なって、ひとつの音になっていた。

「……大翔さん、ほんとすごいね。3回やって、全部ちゃんと出てる。体おかしいよ」

 環が仰向けに転がって、天井を見ながら笑った。紅潮が引きかけている。汗はまだ乾いていない。

 俺は隣に寝転がっていた。体が重い。腰が重い。——でも、不思議と嫌な疲れじゃなかった。

 環の手が——俺の腹の上を滑った。指先が腹筋をなぞって、下へ。

「……環?」

「もう1回、出してあげる」

 使用済みのゴムを——環の指が外した。つまんで、ゴミ箱に放った。それから——素手で、俺のペニスを握った。

 上手かった。

 握り方が——竿の反りに合っている。きつすぎない。緩すぎない。親指の腹が裏筋の上を往復するたびに、腰の奥がじんわりと熱くなる。根元をぎゅっと握って、先端に向かって絞り上げる。搾乳するような動き。指が——竿を知っている指だった。

 3回出したあとなのに——硬くなっていった。

 もうすぐだった。4回目の波が——下腹の奥から、持ち上がってくる。

 環がそれを感じ取った。

 長い舌が——伸びた。

 先端が細い。尖っている。その先端が——鈴口に触れた。触れたのではない。差し込んだ。尿道の入り口に。細く尖った舌先が——穴の中に入り込む。ちろちろと。ちろちろと。内側を、くすぐるように。

「——っっっっ!!」

 声が出た。自分のものだとは思えない声が。

 手コキは止まらなかった。環の手が——竿を搾り続けている。舌先が鈴口を塞いだまま——ちろちろと中を刺激し続ける。

 出た。

 精液が——舌で蓋をされていた。

 行き場を失った白い液が、舌の隙間から不規則に噴き出した。上に。横に。環の頬に飛んだ。鼻の脇に。閉じた瞼の上に。ウェーブのロングヘアに——白い飛沫が散った。

 環は目を閉じたまま——微笑んでいた。精液を浴びながら。顔中に白い筋を残しながら。

 脈動が収まった。

 環がゆっくりと舌を離した。鈴口から。

 軽くキスをされた。精液の匂いがする唇。環の唇と俺の唇の間に——白い液の筋が光った。

 そして——環が俺のペニスに口をつけた。お掃除フェラ。残った精液を、舌先で丁寧に舐め取る。亀頭の溝。カリの裏。鈴口の中。——全部、きれいにした。

「……全部出たね」

 環が顔を上げた。頬に精液がついたまま。髪にも白い飛沫が残ったまま。——その顔で、いつものおバカっぽい笑顔を作った。

「シャワー浴びよ」

 狭いバスルームに二人で立った。

 ぬるいシャワーを浴びながら——環が俺の体を洗ってくれた。スポンジで。背中を。胸を。腹筋を。腕を。——丁寧に。壊れ物を扱うみたいに。

「彼女さんがこれ独り占めしてるの、ほんとに羨ましいです」

 環がスポンジを動かしながら言った。シャワーの音に紛れそうなくらい、小さな声だった。

「4回ですよ。全部ちゃんと濃いし。体力もおかしいし。こんな人いないですよ、普通」

「……」

「ねえ、大翔さん」

「ん?」

「帰ってくださいね。彼女さんのとこに」

 スポンジが止まった。環の手が——俺の背中に、そのまま置かれた。シャワーのお湯が二人の間を流れている。

「……今日は会えない」

「今日じゃなくていいですよ。でも——ちゃんと帰って。私のとこじゃなくて」

「……」

「私は大丈夫です。こういうの慣れてるし。——私なんてね、もっと汚いことしてますから」

 軽く笑った。シャワーの音に半分消えるような、小さな笑い。

「……環」

「ん〜?」

「……ありがとう」

「気持ち悪いこと言わないでくださいよ〜」

 おバカっぽい声。——でも、背中に置かれた手が、少しだけ強く俺を押した。押して、離した。

 シャワーから上がった。環がビールを2本持ってきた。

 ソファに並んで座った。最初と同じ場所。同じ小さなソファ。——でも空気が違っていた。重さが消えていた。穏やかだった。

 環がビールを飲んだ。俺も飲んだ。テレビはついていない。窓の外の車の音だけが聞こえていた。

「だから——大翔さんが汚いなんて、思わないでくださいね」

 環が言った。缶を両手で包んで。俺のほうを見ずに、前を向いたまま。

「寂しかっただけでしょ。それだけですよ」

 ——赦された。

 そう、思った。

 ビールを飲み干した。立ち上がった。服を着た。

「じゃ、帰る」

「うん。おつかれさまでした〜」

 環がドアまで来た。

「大翔さん」

「ん」

「私と会うのは——今日で最後にしましょ」

「……」

「ごはんは行きましょうね。凛さんも一緒に。でも——二人きりは、もうなし。わかりますよね?」

「……ああ」

「じゃ、おやすみなさい〜」

 ドアが閉まった。

 ——膝の上で、缶ビールが傾いていた。

 冷たさが、ジーンズの布地を通して太腿に染みた。はっ、と息を吐いた。ソファの上。706号室。

 あの夜から、9日が経った。環に赦されてから。「寂しかっただけだよ」と言われてから。

 環が埋めてくれたのは——「寂しさ」だった。名前をつけてくれた。大翔さんは寂しかっただけ。汚くない。それだけだよ。

 温かかった。あの言葉は。

 ——なのに、消えていない。

 もやもやが。胸の奥の、形のない重さが。

 環が赦してくれたのは、寂しさだった。でも——俺の中にあるのは、寂しさだけじゃない。もっと深いところに——環の手が届かなかった場所に——もっと重いものが沈んでいる。

 咲耶と、もう前みたいには戻れないかもしれない。

 その恐怖。

 環の温かさでは——届かない場所。

 スマホが光った。凛からだった。

『明日空いてる? 飲まない?』

 短い。いつもより短かった。

 ——凛は、知っている。環のことも。俺のことも。全部、見透かしている。

 返信した。

『いいよ』

 それだけ打って、スマホを伏せた。

 天井を見た。白い天井。

 環の温かさが——まだ、体のどこかに残っている。

 でも今、俺が求めているのは——温かさじゃない。

 翌日。渋谷。いつもの居酒屋。

 カウンターの端に——凛はもう座っていた。ハイボールを飲んでいる。ショートボブの黒髪。伸びた背筋。狭いカウンターに肘をついて、一人で飲んでいる。4月に再会した時と同じ景色だった。——半年経っても、変わらない。凛という女は、変わらない。

「遅い」

「すまん。編集が押した」

「座りなよ」

 隣に座った。生ビールを頼んだ。焼き鳥の盛り合わせ。いつもと同じだ。

 凛はハイボールの氷をからからと回した。俺のビールが来た。泡を一口飲んだ。苦い。胃に落ちた。

 凛が——俺を見た。横目で。切れ長の目。薄い唇が一文字に結ばれている。

「環とは」

 一言。凛らしかった。

「……もう二人では会わないって、約束した」

「あの子から?」

「ああ」

「そ。まあそうなるよね」

 焼き鳥が来た。凛がねぎまを取った。俺はつくねを取った。

「で、何か言われた?」

「……寂しかっただけだって。汚くないって」

「いい子じゃん、環」

「ああ」

「それで楽になった?」

「……少しは」

 凛がねぎまを噛んだ。鶏の脂が弾ける音。飲み込んで、ハイボールで流した。

「少しは、ね」

 間があった。凛が氷を揺らした。からん、と音がした。

「今日呼んだのはさ、大翔の顔見ればわかると思ったから」

「何が」

「環で足りたか足りなかったか」

 ——心臓が跳ねた。

 凛は俺のほうを見ていなかった。正面を向いたまま。ハイボールの氷を見つめている。

「最初からそれを確かめるために呼んだの?」

「そうだよ。環を噛ませたのは私だし。結果を見届ける義務があるでしょ」

 声に感情が乗っていなかった。事務的だった。凛はいつもそうだ。大事なことほど、声が平坦になる。

「で、足りてない顔してる」

「……そうかもしれない」

「何が足りないの」

「……わかんない」

 凛が焼き鳥のもう一本——ぼんじりを取った。脂が多い部位だ。噛んだ。じゅわっ、と脂が弾けた。飲み込んで、ハイボールを一口。

「彼女のこと、まだ好き?」

「好きだよ。それは変わらない」

「好きなのに噛み合わない。好きなのに環と寝た。——好きってだけじゃ足りなくなってるんでしょ」

 ——否定できなかった。

 凛の言葉は短い。短いのに、逃げ場がない。環は柔らかく引き出す。凛は鋭く切る。同じ場所を、全く違うやり方で開いてくる。

 凛が新しいハイボールを頼んだ。マスターが黙って作り始めた。俺もビールをもう一杯頼んだ。

 新しいグラスが来た。凛が氷を揺らした。一口飲んだ。

「環に赦してもらったのは——"寂しさ"でしょ」

「——」

「でも大翔が本当に怖いのは——咲耶とのことがもう元に戻らないかもしれないってことじゃないの」

 ——刺さった。

 環の夜で、俺が整理できなかったもの。もやもやの正体。名前をつけられなかった重さ。

 凛が——一言で、切り開いた。

「確かめたいんでしょ。自分がまだちゃんとあの子を抱ける男かどうか」

「……」

 答えられなかった。答えられないことが——答えだった。凛はそれを知っている。

 沈黙が落ちた。

 凛は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。焼き鳥の皿は空になっていた。カウンターの向こうで、マスターがグラスを拭いている音だけが聞こえていた。

 凛がハイボールを傾けた。ゆっくりと。残りを飲んでいる。俺もビールのグラスを持ち上げた。ぬるくなっていた。——一気に飲み干した。泡はとっくに消えていた。

 凛がグラスをカウンターに置いた。氷だけが残って、からん、と最後の音を立てた。

「帰る?」

「……」

「うち、もうちょい飲む?」

 声が——変わらなかった。いつもと同じ平坦さ。「もう一軒行く?」と同じトーンで、自分の部屋に誘っている。——凛は、最初からこうなることをわかっていた。わかった上で、今夜、俺を呼んだ。

「……いいのか」

「私が聞いてんの」

 凛が立ち上がった。財布を出した。割り勘。いつも通り。

 店を出た。9月の夜風が——まだ夏の名残りを含んでいた。246沿いに、池尻方面へ歩き出した。

 凛が先に歩いた。スニーカー。いつもスニーカーだ。ヒールを履くのを見たことがない。

 俺はその背中を見ていた。165センチ。肩幅は狭いが、背筋がまっすぐ伸びている。Tシャツの上から——筋肉質の背中のラインが見えた。華奢ではない。芯がある。

 凛は振り返らなかった。

 俺が来ることを——知っているから。

 凛の部屋は——静かだった。

 池尻のマンションの4階。1LDK。必要なものだけがある部屋。白い壁。棚にファッション誌と業界誌が整然と並んでいる。花もクッションも装飾もない。生活感は薄い。——でも、清潔だった。凛という人間がそのまま部屋になったような空間。

「座って。なんか出す」

 凛がキッチンに立った。冷蔵庫を開けた。缶ビールを2本持って戻ってきた。

 ソファに座った。革張りの二人掛け。硬い座り心地だった。凛が隣に座った。ローテーブルを挟まず——隣に。缶を渡された。ぷしゅ、と開けた。

 飲んだ。苦い。居酒屋のビールより——冷えていた。

 凛もビールを開けた。一口飲んだ。足を組んだ。スニーカーはもう脱いでいて、素足だった。足首が細い。

 沈黙があった。

 凛は——沈黙に意味を持たせない女だ。黙っているのは、ただ黙っているだけ。気まずさがない。昔から。

「——吐き出しなよ。全部」

 凛が前を向いたまま言った。ビールの缶を片手に。

「全部って——」

「居酒屋で言えなかったこと。まだあるでしょ」

「……」

「環には言えたんでしょ。寂しいって。噛み合わなかったって。じゃあ私には——その先を言いなよ」

 凛の声は平坦だった。でも——「その先」という言葉が、俺の胸の奥を正確に刺していた。環には言えた。環には言えたのに、まだ形にならないもの。

「——俺は」

「うん」

「……咲耶に触れるのが、怖くなった」

 言ってしまった。初めて——言葉にした。

 凛はビールを飲んだ。一口。

「怖い、ね」

「触れたら——また噛み合わないかもしれない。獣が起きないかもしれない。俺が俺のままで——咲耶を抱いて——それが何回も続いたら——」

「——終わると思ってるんだ」

「……わかんない。でも——」

「大翔。私は体のことしか面倒見れないよ。気持ちは環が面倒見てくれたんでしょ。じゃあ——私は体を確かめる」

 凛がビールを置いた。

 俺のほうを向いた。細い目。薄い唇。化粧は居酒屋で会った時のまま——薄い。素顔に近い。

「そうしたらまた何か変わるかも。変わんないかも。でも——出すもん全部出したら、少なくとも体は軽くなる」

「……凛」

「ゴムは——いらないでしょ」

 凛の声が——少しだけ、変わった。平坦さの中に——微かな柔らかさが混じった。

「……いらない。お前だから」

「——うん」

 そのひと言に——凛の唇が、かすかに動いた。笑ったのか。笑おうとしたのか。

 ゴムがいらない。

 それだけのことが——俺の中の何かを、緩めた。計算しなくていい。タイミングを測らなくていい。外出しの角度を考えなくていい。中に——出していい。最初から、最後まで。

 咲耶との時は、そうじゃない。咲耶は妊娠する。だからゴムをつける。外に出す。毎回、何かを考えている。考えている時点で——獣は起きない。

 凛の横では——何も考えなくていい。

 それが「楽」だと感じる自分が——どうしようもなかった。

 沈黙が落ちた。ソファの革が、二人の体温で温まっている。

 凛の手が——伸びた。俺の手の甲に、冷たい指先が触れた。——昔から、凛の手は冷たい。

 凛がこちらを向いた。目が合った。

 唇が——触れた。軽かった。押しつけるのではなく、合わせるだけ。離して、また合わせる。7年ぶりの唇の温度を確かめるように。舌は入れない。凛のキスは——いつも、こうだった。

 凛がTシャツの裾を掴んだ。自分の。一息で脱いだ。

 凛の体は——7年前より研ぎ澄まされていた。

 Bカップの胸。小さいが形が整っている。ブラを外すと——鎖骨の下あたりの筋肉がうっすらと浮いていた。鍛えている体。乳首は薄い茶色。周囲の肌は白い。

 腹筋が——薄く割れていた。へその上下に縦の線がくっきりと走っている。現場で機材を運び、休みの日はジムに通っている体。余分なものがない。

 ウエストからヒップにかけてのラインだけが——女だった。くびれは穏やかだが、尻に丸みがある。脱いで初めてわかる。服を着ていると男の子みたいなシルエットなのに、腰から下だけが柔らかい。

「——何見てんの」

「体。変わったなと思って」

「良い方?」

「良い方」

「……ふふ。嘘つき」

 凛が——笑った。鼻で笑うのでもなく、口角だけ上げるのでもない。——柔らかかった。7年ぶりの体を見られることへの、照れ。凛にも——そういう顔がある。

 凛がソファに座り直した。俺のベルトに手を伸ばした。

 慣れた手つきだった。7年のブランクがあるのに——指が覚えている。バックルを外す。ジーンズのボタンを外す。ジッパーを下ろす。

 下着を下ろした。半勃ちだった。

「……変わんないね。でかいのは」

 凛が竿に触れた。指が細い。爪は短く切ってある。スタイリストの手。冷たかった。——昔から、凛の手は冷たい。

 その冷たい指が——俺のペニスを根元から握った。ゆっくりと。確かめるように。反りをなぞって、太さを測って、亀頭の形を指先で辿った。——体を、覚え直している。7年ぶりの輪郭を。

 硬くなっていった。凛の冷たい手の中で。血が集まるにつれて——凛の指の間で、熱が上がっていく。冷たい指と、熱くなっていく竿の温度差が——肌の上で溶け合っていた。

「……やっぱりおかしい。この硬さ」

 凛がゆっくりとしごいた。根元から先端へ。親指の腹で裏筋を擦り上げる。先端のくぼみに指先を押し当てて——透明な液が滲んでいるのを、指で拭った。

「……出てる」

「……触り方が上手いからだろ」

「上手くなったんじゃなくて、覚えてるだけ」

 凛の手が止まった。竿を握ったまま——俺の目を見た。

「こっちも見て」

 凛が俺の手を取った。自分の体に導いた。腹筋の上に、俺の掌を置いた。——薄く割れた腹筋。温かい。さっきまで冷たかった凛の体が——少しずつ、熱を帯び始めていた。

 掌を滑らせた。腹筋から下へ。腰骨を越えて。恥丘の上を、指先がゆっくりと降りていく。毛は薄い。——その奥に、指が触れた。

 濡れていた。

 さらっとした潤い。咲耶のように溢れるほどではない。でも——凛の体が、応えている。指先に——温かい湿り気が絡みついた。

「——ん」

 凛が息を漏らした。短い。唇を噛んでいる。——でも腰が、微かに持ち上がった。俺の指を受け入れようとしている。

 指を1本、入れた。ぬるりと。凛の膣壁が——すぐに反応した。指に絡みついてくる。締めて、蠕動して——手でもわかる。この膣が普通じゃないことが。指を1本入れただけで——壁が俺の指の形を読んで、包み込んでくる。

「……すごいな。指でもこれか」

「……うるさい」

 凛の声がかすかに震えた。——感じている。でも認めない。凛らしかった。

 指を抜いた。体を下へずらした。凛の太腿の間に——顔を埋めた。

「——っ、何——」

「7年ぶりだ。ちゃんと確かめる」

 舌を伸ばした。凛の入り口に。薄い陰毛の下の——濡れた粘膜に、舌先が触れた。さらっとした愛液の味。酸味が薄い。咲耶より——あっさりしている。余計なものがない味。

 クリトリスに舌先を当てた。小さい突起。——凛の体は外で感じるタイプだった。5年間で学んだことだ。

「——っ……」

 凛の太腿が——びくりと震えた。手がソファの縁を掴んだ。声は出さない。唇を噛んで耐えている。でも——太腿の筋肉が、微かに痙攣している。

 舌を動かした。クリトリスの周りを円を描くように。ゆっくりと。直接触れない。焦らす。周辺を舐めて——かすめて——また逸れる。

「——っ、大翔——そこ——」

「ここ?」

 舌先でクリトリスを直接舐めた。ちろりと。

「——ん……っ!」

 凛の腰が跳ねた。声が——漏れた。小さいが、確かに。

 舌で包み込んだ。クリトリスを唇で挟んで、舌先で転がすように。ちゅ、ちゅ、と吸い上げた。同時に指を2本、膣に入れた。膣壁が——即座に指を締め上げた。うねりが指に伝わってくる。

「——っ、ん——っ、あ——」

 凛の声が——連続して漏れた。唇を噛む力が足りなくなっている。太腿が俺の頭を挟んだ。踵が背中に当たった。——引き寄せている。

「——大翔。——もう、いい」

「いいのか」

「いいから——上来て」

 凛の声が——掠れていた。顔を上げた。凛の目が——潤んでいた。頬がうっすら紅潮している。

「……その前に」

 凛が体を起こした。俺をソファに押し倒した。——凛が俺の脚の間に、逆向きに覆いかぶさった。

 69。

 凛の顔が俺の股間の前にある。同時に——凛の濡れた秘所が、俺の顔の上にある。

 凛の口が——俺のペニスを咥えた。先端だけ。唇で包んで、舌で裏筋を擦った。——上手くはない。環のような技巧はない。でも——丁寧だった。俺の竿の形を確かめるように。冷たい指が根元を握って、口と手でゆっくりとしごいている。

 俺も——顔の上にある凛に、舌を伸ばした。

 さっきよりも濡れていた。俺のクンニで火がついた体が——愛液を増やしている。さらっとした液が、舌の上に落ちてきた。

 クリトリスを舐めた。下から。凛の膣に指を入れながら。

「——ん……っ、ふ……っ」

 凛の口が——俺のペニスの上で震えた。声が竿に伝わってくる。振動。凛が喘ぐたびに、唇が竿の上で震えて——それが快感になる。

 互いの体を、口と舌と指で確かめ合っていた。言葉はなかった。音だけがあった。凛が俺を咥える水音。俺が凛を舐める水音。凛の息。俺の息。重なって——部屋を満たしていた。

 凛が口を離した。

「……もう、入れて。限界」

 凛の声は——平坦を装っていたが、震えていた。

 凛がソファから立ち上がった。俺の手を取った。引いた。ベッドまで、3歩。

 凛が仰向けに横たわった。俺が覆いかぶさった。

 凛の顔が近い。面長の輪郭。切れ長の目。薄い唇。素顔。

 ——ここからだ。

 凛の膣の秘密を、俺は知っている。5年間で知り尽くしたつもりだったが——最後まで征服できなかった。

 凛の膣は動く。意識的に。自在に。まるで口のように。膣壁が波打ち、うねり、飲み込むように蠕動する。奥まで到達すると——子宮口が鈴口にぴたりと吸い付いて、亀頭を舐め回す。くるくると。圧を変えながら。

 普通の男なら1分と持たない。凛が「奥まで入れて耐えられたのは大翔だけ」と言っていたのは嘘じゃない。たまたま、人より少し亀頭が大きいから——かろうじて耐えられる。

 かろうじて、だ。征服はできない。凛の膣の前では、40歳の男が大学生に戻る。

 それを——7年ぶりに、味わう。

「……久しぶりだね」

「ああ。7年ぶり」

 入れた。

 ゴムなしで。生で。

 ——ぬるり、と。

 凛の膣壁が——俺を迎えた。

 温かい。粘膜が直接触れ合っている。ゴムがない。壁がない。凛の体温が——亀頭から竿を伝って、腰の芯まで染み込んでくる。

「——あ」

 凛が短い声を漏らした。ほとんど息だった。凛は声を出さない女だ。5年間付き合って、それは変わらなかった。喘がない。叫ばない。唇を噛んで、喉の奥で殺す。

「変わんないね。中が」

「……ふふ」

 凛が——笑った。柔らかく。7年ぶりの体に——安心している顔だった。

 そして——凛の膣が、動き始めた。

 来た。

 膣壁が——波打った。入り口から奥に向かって、順番に締まっていく。蠕動。ペニスを飲み込むように。亀頭が——引き込まれる。自分では動いていないのに——腰が、前に進んでいく。

「——っ」

 奥まで入った。子宮口に——亀頭が触れた。

 ——吸い付いた。

 鈴口に。ぴたりと。子宮口の小さな開口部が——俺のペニスの先端を、口を尖らせるように包み込んだ。密着して、吸って——ちゅぷ、と音がした。体の中で。

 その瞬間——ペニスが、震えた。

 射精ではない。意思でもない。凛の子宮口に吸い付かれた衝撃で——鈴口から、真珠みたいな精液の粒が一滴、にじみ出た。我慢汁ではない。先走りでもない。精液だった。たった一粒の。

 凛の子宮口が——それを、ちゅぷっ、と吸い取った。口を尖らせるように。

「——っぐ……っ」

 背筋が跳ねた。全身に電流が走った。——やばい。入れただけで漏らした。凛の膣に。40歳の男が。19センチのペニスを持つ男が。

 子宮口が——鈴口の上を、くるくると回り始めた。舐め回している。内側で。圧を変えながら。漏れた一粒の味を確かめるように——ゆっくりと。

「——っ、凛——っ」

「——全部入れないで。まだ」

「……お前が飲み込んでるんだろ——っ」

「……っ。覚えてんだ、そういうの」

「忘れるわけないだろ」

 凛の膣が——さらに動いた。膣壁全体がうねって、竿を包み込むようにしごいている。根元から先端まで。波が往復する。俺のペニスの形を覚え直すように——輪郭をなぞって、締めて、緩めて、また締める。

 気持ちいい。——気持ちよすぎる。7年のブランクが嘘のように、凛の膣が俺を知っている。どこを絞れば声が漏れるか。どの角度で吸えば腰が浮くか。——5年分の記憶が、凛の膣壁に刻まれている。

「——出していいよ」

 子宮口が鈴口をきゅう、と吸い上げた。

「——早すぎる」

「我慢すんな。今日は回数出すから」

 ——耐えられなかった。

 出た。

 ゴムなしで。凛の中に。7年ぶりに。

 どくん。どくん。どくん——。

 精液が——凛の中に注がれていく。熱い。俺の精液の温度が——凛の膣壁に、直接伝わっている。

「——ん……っ」

 凛が——息を漏らした。唇を噛んでいる。喉の奥で声を殺している。でも——体は嘘をつけない。膣が——射精に合わせて、きゅっ、きゅっ、と脈打つように締まっている。搾り取っている。最後の一滴まで。

「——は……っ」

 俺の息が漏れた。全身が——弛緩した。

「まだ抜かないで」

「——っ、凛、今出したばっかり——」

「知ってる。だから気持ちいいんでしょ」

 凛の膣が——収縮した。射精直後の——過敏な亀頭を、ゆっくりと、締め上げた。子宮口が——まだ鈴口に吸い付いている。離していない。くるり、と回った。

「——っっ、く——」

 声が漏れた。快楽が——痛みの手前で揺れている。射精直後の神経が焼けるような鋭さ。でも凛は加減を知っている。環のように暴力的に搾るのではなく——ぎりぎりのところで、ゆっくりと、絞る。

 凛の膣壁が波打った。根元から先端へ。先端から根元へ。萎えかけたペニスが——また硬くなっていく。凛の中で。抜かないまま。

「……ふふ。まだ元気じゃん」

 凛が——笑った。薄い唇が弧を描いた。余裕のある顔。俺を完全に掌握している顔。

 凛の膣が——加速した。波の間隔が短くなる。しごく速度が上がる。子宮口の吸い付きが強くなる。

「——っ、凛——待——」

「待たない」

 凛の膣が——2回目の射精を、搾り取った。

 出た。凛の中に。2回目。さっきより——量は少ない。でも脈動が長い。凛の子宮口が——脈動のひとつひとつに合わせて、きゅっ、きゅっ、と吸い上げている。一滴も逃さない。

「——は……っ、は……っ」

「……うん。2回目」

 凛が——数えていた。平坦な声で。

「私が動く。大翔は寝てて」

 凛が体を起こした。俺のペニスを抜いた——ぬるり、と。精液が凛の中から溢れた。ごぼっ、と。白い液が太腿の内側を伝って、シーツに染みを作った。2回分の量。——多い。

 凛がそれを指で拭った。指先についた白い液を——ちらりと見て、鼻で笑った。

「……相変わらず量がおかしい」

 凛が俺の腰の上にまたがった。騎乗位。

 自分から腰を沈めた。精液がまだ残っている膣が——俺のペニスを飲み込んでいく。ぬるり、と。自分の精液が潤滑剤になっている。その感覚が——背徳的だった。

 凛の腰が動き始めた。前後に。円を描くように。ゆっくりと。膣壁が——別の生き物のように蠕動しながら、竿をしごいている。正常位の時は俺が上にいたから、膣の動きを「受ける」側だった。騎乗位になると——凛が完全に支配している。角度も、深さも、速度も、全部凛が決める。

「……お前、こんなに上手かったか」

「7年分、上手くなった」

「……」

「……うふふ。褒めても何も出ないよ」

 凛が——笑った。得意げに。騎乗位で俺を見下ろしながら。鋭い目が——少しだけ緩んでいた。いつもの硬さが消えている。代わりに——楽しそうだった。俺を翻弄することを、楽しんでいる。

 凛の腰がぐりん、と回った。深く沈んだまま、円を描く。俺のペニスが凛の中で万華鏡みたいに角度を変えていく。膣壁が——その動きに合わせて、波打つ。しごく。絞る。

「——っ、く——」

 声が漏れた。凛の中が——気持ちよすぎた。膣壁が竿の全面を包んで波打ちながら、子宮口が亀頭の先端を吸い続けている。二重の刺激。——されるがままだった。何も考えなくていい。何も。

 凛の膣が——加速した。波の間隔が詰まっていく。しごきが速くなる。子宮口の吸い付きが——きゅっ、きゅっ、とリズミカルになった。

「——凛——っ、また——」

「うん。出して」

 出た。3回目。凛の中に。どくん、どくん——脈動のたびに、子宮口が精液を吸い上げる。一滴も逃さない。

「……3」

 凛が——数えた。平坦な声で。俺の上で腰を止めないまま。

「こっち来て」

 凛が俺のペニスを抜いて、ベッドの縁に腰を下ろした。俺の手を引いた。——対面座位。凛が俺の腰に座って、脚を俺の背中に回した。

 密着する。凛の体が——俺の体に押しつけられている。Bカップの小さな胸が、俺の胸板に当たっている。乳首が硬い。薄い茶色の突起が——俺の肌に触れるたびに、凛の息が微かに揺れた。

 入れ直した。この体位は——近い。凛の顔が、目の前にある。汗が額を伝っている。頬が紅潮している。——素顔の凛。化粧も鎧も全部脱いだ凛。

 凛の膣が——また動き始めた。対面座位の角度で。密着しているから、膣壁の動きが直接腹に伝わってくる。波打っている。うねっている。中で——俺のペニスを、舐め回すように。

 仕返しした。

 凛の薄い唇を奪った。キス。舌を入れた。凛の舌は短い。環のような長い舌ではない。でも——的確だった。俺の舌を吸って、噛んで、離して。唇を甘噛みして、また吸って。

 同時に、凛の胸を手で包んだ。Bカップ。掌にすっぽり収まる。乳首を親指の腹でゆっくり擦った。くるくると。押して、弾いて。

「——ん……っ」

 凛の息が——乱れた。キスの合間に。喉の奥で殺そうとしているが——漏れている。

「……そういうのされると私も——」

「たまには勝たせろ」

「……ふふ。無理」

 凛の膣がきゅっと締まった。子宮口が——鈴口をぎゅう、と吸い上げた。乳首を攻められた仕返しのように。

「——っっ」

 出た。4回目。キスをしながら。凛の口の中で、うめきが溶けた。凛の膣が——俺の射精に合わせてきゅっ、きゅっ、と脈打っている。

 仕返しは——失敗だった。

 キスを離した。凛の唇が——赤くなっていた。噛んだ跡。凛が舌で自分の唇を舐めた。

「……4。あと4回くらい、ね。」

 まだ半分。

「後ろから」

 凛が四つん這いになった。丸みのある尻を突き出す。——俺が攻める体位。今度こそ。

 後ろから入れた。深く。凛の膣壁が——バックの角度で、竿の別の面を包み込んだ。正常位とも騎乗位とも違う感触。

 腰を叩きつけた。力で。深く。ぱんっ。ぱんっ。——俺のリズムで。俺の角度で。攻めている。

 ——はずだった。

「……大翔。力で来ても意味ないよ」

 凛の膣が——うねった。バックの角度でも。後ろから突いているのに、膣壁が竿に絡みついてきて、しごいて——子宮口が先端を吸っている。攻めているはずの俺が——搾られている。

「中で全部取るから」

 凛の声は——余裕だった。四つん這いで突かれながら、息ひとつ乱さない。俺だけが荒い息をしている。俺だけが翻弄されている。

 腰の動きを速くした。力で押し切ろうとした。ぱんっぱんっぱんっ——凛の尻が俺の腰を叩く音。

「——っ、く……っ」

 無駄だった。速くすればするほど、凛の膣壁との摩擦が増えて、子宮口の吸い付きが強くなる。力で来れば来るほど——搾り取られる。

 出た。5回目。凛の中に。腰を叩きつけたまま——奥で精液を搾り出された。

「……5」

 凛が数えた。顔を横に向けて、薄い唇の端で——笑っていた。

 ——征服できない。どの体位でも。

「横になろ。疲れたでしょ」

 凛が体を横たえた。側位。俺が凛の背中側に回った。

 凛の背中が——目の前にある。肩甲骨が薄い肌の下で浮いている。背骨のくぼみを、汗が一筋、ゆっくりと流れ落ちていく。首の後ろ——ショートボブの毛先が汗で張りついている。その下の、うなじの肌。白い。5回出した後の視界がぼやけているのに——凛の背中の輪郭だけは、くっきり見えていた。

 横から入れた。凛が脚を俺の腰に絡めた。かかとが腰骨のあたりに引っかかって、ぐっ、と引き寄せられた。深い。騎乗位やバックとは違う角度で、膣壁の側面を竿が擦っている。

「——ん……」

 凛が息を漏らした。小さかった。声を殺しているのとも違う。——力が抜けている。5回搾り取った後の、弛緩した体。でも膣は止まらなかった。

 ゆっくりと、波打っている。さっきまでの容赦ない絞り上げではない。穏やかな波。潮が満ちるように、引くように。竿を包み込んで——搾り取るのではなく、温めるように。

 凛の背中に鼻先を寄せた。石鹸の匂い。その奥に——体温が蒸した、凛の匂い。汗と、ほんの微かに甘い、肌そのものの匂い。咲耶の甘い体臭とも、環のフルーツ系のシャンプーとも違う。もっと乾いた、透明な匂い。

 腕を凛の腰に回した。掌が腹筋に触れた。薄く割れた筋肉。——その下に、微かな脈動を感じた。凛の体が、中と外で、同じリズムで動いている。膣壁の波と、腹筋の微細な収縮が連動している。

「……お前は疲れないのか」

「私は大丈夫。鍛えてるから」

 凛の声が、背中越しに聞こえた。少しだけ息が混じっている。

 掌を、もう少し下へ滑らせた。恥丘の手前。指先でクリトリスに触れた。——凛の背中がぴくりと跳ねた。

「——っ」

「ここも、覚えてる」

「……うるさい」

 声が震えていた。さっきクンニの時にも「うるさい」と言った。凛の「うるさい」は——白旗だ。

 指先でゆっくりと円を描いた。小さく。凛のクリトリスは硬く勃起していた。指が触れるたびに、膣壁の波が乱れる。規則的だったリズムが崩れて——不規則に、きゅっ、きゅっ、と締まる。

「——ん——っ、あ——」

 凛の声が——漏れた。声を殺す余裕がなくなっている。指と、中のペニスと、二重の刺激。凛の脚が——俺の腰をぎゅうと挟んだ。かかとが食い込む。引き寄せている。もっと深く、と。

 凛の膣が——変わった。穏やかな波が、うねりに変わっている。竿に絡みつくように。子宮口がきゅう、と鈴口を吸った。——この体位でも。どこまでも。

 ゆっくりと腰を動かした。引いて、押す。側位の浅いストローク。でもそのたびに、膣壁が竿の全面を舐め上げるようにうねって——凛のクリトリスを指で転がすたびに、締め付けが跳ね上がる。

「——っ、大翔——そこ——回さないで——」

「ここか」

「——っっ」

 凛の体が震えた。背中が俺の胸板に押しつけられている。汗ばんだ肌と肌。体温が溶け合っている。凛の心臓の音が——背中越しに、俺の胸に伝わってきた。速い。不規則。

 凛の膣がきゅうっと締まった。波ではない。痙攣。——来ている。

「——ん……っ、ふ——っ——」

 凛の背中が強張った。肩甲骨が浮き上がった。膣壁の波が——止まった。一瞬だけ。凍りついたように。

 ——次の瞬間、全部が弾けた。

「——っっ、やだ——」

 凛の声だった。喉の奥から絞り出された、濁った声。凛の——あの凛の、声を殺し続けていた凛の口から。

「やだ——っ、大翔——指——止め——っ」

 止めなかった。クリトリスを転がす指も、中で膣壁を擦るペニスも。

 凛の体が丸まった。背中が俺の胸板に押しつけられて、膝が引き上げられて——胎児みたいに丸くなった。その体が、ふるふると震えている。細かく。止まらない。凛の手が——俺の腕を掴んだ。爪が食い込んだ。短い爪。スタイリストの、短く切りそろえた爪。

「——あ……っ、あ——っ——」

 凛の声が裏返った。低い声が、一瞬だけ甲高くなった。膣が——不規則に痙攣している。波ではない。ばらばらに、でたらめに、収縮と弛緩を繰り返している。その痙攣が——俺のペニスを、ぎゅう、ぎゅう、と絞るように締め上げた。

 凛の太腿が痙攣した。かかとが俺の腰に食い込んでいる。引き寄せている。「やだ」と言いながら——体が離さない。

「——ぅ……っ……」

 最後に、喉の奥から小さなうめきが漏れた。——それきり、声が止まった。凛の体が、ゆっくりと弛緩していく。指が俺の腕から離れた。爪の跡が——じんじんと熱い。

 ——引きずられた。

 凛の膣が締まるたびに、下腹の奥から何かが引っ張り上げられる。もう量はない。わかっている。でも体が——凛の痙攣に合わせて、搾り出そうとしている。

「——っ……ん……」

 6回目。凛の中に。

 もう——体が空になりかけていた。量がない。脈動だけが長い。弱い。——精液というよりも、体温だけを注いでいるような射精だった。凛の膣が——その弱い脈動をひとつひとつ受け止めて、きゅっ、きゅっ、と返してくれた。子宮口が鈴口に吸い付いたまま——最後の一滴を、待っている。

 脈動が収まった。凛の痙攣も——ゆっくりと鎮まっていった。

 二人とも——動かなかった。横たわったまま。繋がったまま。凛の背中に額を押しつけていた。汗が冷えかけている。

「……6。あと2回」

 凛の声が——少しだけ、柔らかかった。背中越しの声。息が混じっている。——数えている。まだ数えている。余裕のふりを、最後まで崩さない女。

「もう少し出せるでしょ」

 凛が騎乗位に戻った。俺の腰の上にまたがって——見下ろしている。

「……もう出ない」

「出る。大翔の体は私が一番知ってる」

 凛の膣が——今夜一番の動きを始めた。

 膣壁が全体で波打った。入り口から奥へ、奥から入り口へ。交互に。重なるように。竿全体を包み込んで、しごいて、絞って——子宮口が鈴口をぎゅうっと吸い上げた。

「——っっ、凛——っ」

「……知ってるよ。ここでしょ。大翔が一番弱いの——ここ」

 子宮口が——亀頭の裏側を、ぐりっ、と舐めた。カリの縁に沿って、くるりと一周。そこから鈴口に戻って、ちゅぷ、と吸い直す。5年間で覚えた急所を——7年経っても忘れていなかった。

「——っ、く——」

 腰が浮いた。反射的に。逃げようとした。——凛の膣が、逃がさなかった。膣壁が竿に絡みついて、引き戻す。子宮口が鈴口を離さない。

「逃げても無駄。中で全部取るって——言ったでしょ」

 凛の腰がゆっくり回った。深く沈んだまま。円を描くように。膣壁が——竿の全面を、ぬるぬると舐め回している。子宮口が亀頭をくわえたまま、角度を変える。右。左。上。——急所を、あらゆる方向から擦り上げている。

 凛が——俺を見下ろしていた。騎乗位の高さから。目が半分閉じかけている。余裕の顔。薄い唇の端を——舌先がゆっくりと舐めた。左から右へ。俺の反応を味わうように。

「——っ、ぅ——っ、凛——もう——」

「もう、何?」

「——出——」

「うん。出して」

 子宮口がきゅうっと吸い上げた。最後の一押し。

 出た。7回目。

 ——痛かった。快楽ではなかった。下腹の奥から、もう残っていないものを無理やり搾り出される感覚。空の泉から最後の水を汲み上げるような、痙攣に近い射精。脈動だけが長い。量はほとんどない。透明に近い液が——凛の子宮口に吸い取られていく。

 全身が震えた。腕の力が抜けた。視界の端が白くなった。

 凛の膣が——脈動のひとつひとつを、丁寧に受け止めていた。きゅっ。きゅっ。きゅっ。——もう何も出ていないのに、最後まで吸い続けている。

「——は……っ、は……っ……」

 息が戻らなかった。胸が上下している。凛の下で——頭がシーツに沈んだ。

「——ほら。出た」

 凛が——笑った。俺を見上げて。汗ばんだ顔で。

「……ふふ。7回目。あと1回。——流石にもう限界だね。でも…」

 嬉しそうだった。余裕の笑み。カウントしている。——その「ふふ」の中に、凛らしくない温かさが混じっていた。

 凛が俺の上から降りた。仰向けになった。脚を開いた。

「最後。好きにしていいよ」

 初めて——凛が主導権を手放した。

 覆いかぶさった。正常位。俺の体位。

 凛の顔が——近い。見慣れた輪郭。見慣れた目。汗で張りついた髪。素顔。化粧も鎧も全部剥がれた凛が——俺の下にいる。

 入れ直した。7回分の精液がまだ凛の中に残っている。ぬるぬると。自分の精液の中に、もう一度入っていく感覚。背徳的で——同時に、どこか安心する。この中は俺のもので満たされている。

 腰を動かした。ゆっくりと。自分のリズムで。俺のペースで動いていい——はずだった。

 凛の膣は——最後まで容赦しなかった。俺が入れるたびに、膣壁が迎えに来る。引き込む。包む。しごく。引こうとすると——締めて、逃がさない。「好きにしていい」と言いながら——凛の膣は、俺に好きにさせる気がない。

 でも——さっきまでとは、何かが違った。

 膣壁の動きが——柔らかかった。搾り取るのでも、翻弄するのでもない。包んでいる。温めている。まるで——最後の1回を、大事にするように。

 凛の目が——開いていた。俺を見ていた。いつもの鋭さがない。曇っている。潤んでいる。——さっきまで舌なめずりしていた女と同じ目とは思えなかった。

「——ん……っ」

 凛が声を漏らした。側位の時とは違う声だった。あの時は「やだ」と叫んで、指を止めろと言った。抵抗の声だった。

 今の声は——違う。

「……ふ……っ」

 笑いなのか喘ぎなのかわからない息。唇を噛んでいない。殺していない。——漏れるに任せている。凛が声を殺すのをやめたのは、今夜これが初めてだった。

 腰を動かし続けた。深く。ゆっくり。凛の顔を見ながら。

「——ん……あ……」

 凛の声が——途切れ途切れに漏れていた。小さい。かすれている。でも——止めていない。俺が奥を突くたびに、唇の隙間から、息と一緒にこぼれ落ちてくる。

 凛の手が——俺の背中に回った。指先が肩甲骨のあたりに触れた。爪は立てていない。掌で。撫でるように。——さっきまで爪を食い込ませていた手が、今は優しい。

 凛の膣が——ゆっくりと、波打った。穏やかな波。側位の時に感じた、あの包み込むような動き。搾り取るのではなく——受け止める動き。子宮口が鈴口に吸い付いたまま、くるりと回った。急所を擦るのではなく——なぞるように。確かめるように。

「……ふふ」

 凛が——笑った。目が潤んだまま。笑っているのに——泣きそうな顔だった。

「——大翔」

「——凛」

 名前を呼び合った。7年前と同じ声で。

 凛の膣がきゅう、と締まった。優しく。最後の合図のように。

 ——体が動いた。

 凛の腰を掴んだ。両手で。細い腰。指が肉に食い込む。——がっしりと。離さないように。

 叩きつけた。

 ぱんっ。

 亀頭が悲鳴を上げた。7回出し切った後の、過敏すぎる神経の上を——凛の膣壁が擦る。快楽ではない。焼けるような痛みだった。それでも——腰が止まらなかった。

「——っぐ……っ」

 うめきが漏れた。自分の口から。歯を食いしばっているのに——喉の奥から、勝手に。

 ぱんっ。ぱんっ。ぱんっ。

 乱暴だった。さっきまでのゆっくりとした動きが嘘のように。凛の細い体が、突き上げのたびに跳ねる。ベッドが軋む。凛の口から——声が、弾き出された。

「——っ、あ——っ、あ——」

 一突きごとに。短く。途切れて。——凛が声を殺すのを、もう諦めている。

「——く……っ、ぅ……っ——」

 俺の声も混ざっていた。突くたびに亀頭が焼ける。子宮口に当たるたびに、鈴口の先端に針を刺されるような鋭い痛みが走る。膣壁が竿を締め上げて、擦り上げて——過敏になった皮膚の全面が悲鳴を上げている。痛い。痛いのに——その痛みの奥に、微かな快感の芯が残っていた。それだけを頼りに、腰を振った。

 ぱんっ。ぱんっ。

「——っ、あ゛——っ……くそ……っ」

 声が漏れる。止められない。引くたびに膣壁が竿にしがみついて離さない。押し込むたびに子宮口が亀頭を噛む。全部が痛くて、全部が気持ちよくて——目の端が滲んだ。

「——っ、大翔——っ」

 凛の手が——俺の腕を掴んだ。思いっきり。細い指が、上腕の筋肉に食い込んだ。凛の握力が——こんなに強いと知らなかった。骨が軋むほど。離さないという意志だけで握っている手だった。

「——凛——っ、く——っ——」

 腕が痛い。亀頭が痛い。腰が悲鳴を上げている。——それでも止まれなかった。止まったら、この痛みの奥の快感が消える。消えたら——もう二度と、8回目は出ない。

 凛の膣が——応えた。蠕動が戻った。搾るように。容赦なく。「好きにしていい」と言ったのに——最後の最後まで、凛の膣は俺を逃がさない。亀頭の痛みと膣壁の快楽がぐちゃぐちゃに混ざって——もう、どっちがどっちかわからなかった。

「——ぅ、あ゛——っ——」

 叫んだ。俺が。40歳の男が。声を上げた。

 出た。8回目。最後。

 どくん——。どくん——。

 量はもうない。ほとんど空打ちだった。でも——脈動が、今夜一番長かった。痛みは不思議と消えていた。7回目の搾り出されるような苦痛ではなく——体の奥に残っていた最後の何かが、静かに溢れ出していくような射精だった。

 凛の膣が——その脈動のひとつひとつを、丁寧に受け止めていた。きゅっ。きゅっ。きゅっ。——もう何も出ていないのに。子宮口が鈴口に吸い付いたまま、最後の一滴を——待つのではなく、見届けるように。

「——は……っ」

「——ん……」

 二人の息が重なった。

 凛の上に——崩れ落ちた。85キロの体重が、凛の細い体にかかっている。潰れる。わかっている。でも——体が動かなかった。

 凛は何も言わなかった。細い腕が俺の背中に回った。軽く。——さっきまで俺を翻弄し続けた女が、今はこの体を黙って受け止めている。

 凛の心臓の音が聞こえた。速い。まだ速い。——俺の心臓も速かった。二つの音が、ずれながら重なって、少しずつ——同じリズムに近づいていった。

 しばらく——動けなかった。

 シャワーの音が聞こえていた。

 凛が先に浴びている。俺はベッドに転がったまま——天井を見ていた。凛の部屋の天井。白い。府中の部屋の天井より——少しだけ低い。

 体が——空だった。8回。出し切った。腰が砕けている。腕に力が入らない。指先が——まだ微かに痺れている。

 シャワーが止まり、ドアが開いた。バスタオルを巻いた凛が出てきた。髪が濡れている。ショートボブだから——すぐ乾く。タオルでがしがしと拭いている。

「生きてる?」

「……かろうじて」

 凛が鼻で笑った。ふっ、と。タオルで髪を拭きながら——ベッドサイドに立った。俺を見下ろしている。

「8回。ちゃんと出た。大翔の体は壊れてないよ」

 ——体担当の、診断だった。

 凛は最初からそのつもりだった。環が「寂しさ」を赦した。凛は「体」を確かめた。8回出せるか。ちゃんと硬くなるか。最後まで続くか。——全部、確かめた。

「あとは気持ちの問題」

「……ああ」

「シャワー、使っていいよ」

 体を起こした。——重かった。脚がふらついた。バスルームに入った。凛の部屋のシャワーは——水圧がちょうどよかった。石鹸の匂い。凛と同じ匂いがした。

 出てきたら、凛はキッチンのカウンターに腰を預けて、水を飲んでいた。Tシャツに着替えている。下は——たぶん下着だけだ。

「ビールいる?」

「……もらう」

 ソファに座った。凛がビールを2本持ってきた。隣に座った。

「彼女のところに帰りなよ」

「……」

「環と同じこと言ってるの、わかってるよ。でも——私は体を確かめただけだから。環みたいに優しいこと言えないし」

 凛がビールを飲んだ。俺も飲んだ。

「凛は——これでいいのか」

「私のことは気にしなくていい。——また飲みたくなったら呼んで。居酒屋のほうに」

 凛がビールを飲んだ。一口。缶を膝の上に載せた。

「名前はつけないでおこう。今日のこと」

「……ああ」

「居酒屋で飲んで、たまにこうなって、帰る。それだけの関係。——わかった?」

「……わかった」

 凛のビールが空になった。俺のも空になった。

 立ち上がった。Tシャツを着た。ジーンズを履いた。

「帰る」

「うん」

「……ありがとう」

「気持ち悪い。環にも同じこと言ったでしょ」

「……言った」

「でしょうね」

 凛がドアまで来た。俺が靴を履くのを、壁に背中を預けて見ていた。

「大翔」

「ん」

「タクシー呼んだ?」

「今呼ぶ」

 スマホを出した。タクシーアプリを開いた。——その画面の通知欄に、メッセージが見えた。

 咲耶からだった。21時に届いていた。

『今日もお疲れ様。おやすみ』

 短い。いつもと同じ。——凛の部屋で、凛に8回出している間に、届いていた。

「……おやすみ」

 呟いた。画面に向かって。返信は——打たなかった。今は、打てなかった。

「——また飲みに来なよ。居酒屋のほうに。ここじゃなくて」

 凛の声が——背中に届いた。

「……ああ」

「じゃ」

 ドアが閉まった。

 廊下に立った。マンションの蛍光灯が白く光っている。池尻の夜は——渋谷より静かだった。

 タクシーが来た。乗り込んだ。「府中まで」と言った。

 シートに背中を預けた。

 窓の外を、首都高の灯りが流れていく。

 咲耶。環。凛。

 3つの名前が——俺の中にある。

 咲耶が一番大事だ。それは変わらない。

 でも——意味が変わっている。環は「寂しさ」を赦してくれた。凛は「体」を確かめてくれた。

 凛が言った。「壊れてないよ」と。

 壊れていないなら——まだ、咲耶を抱ける。咲耶のところに帰れる。

 帰れるのに——帰り方が、わからない。

 タクシーが府中に着いた。部屋に上がる。

 誰もいない。

 ソファに座った。ビールは開けなかった。

 スマホを開いた。咲耶のメッセージ。『今日もお疲れ様。おやすみ』。

『おやすみ。お疲れ様』

 送信した。既読はつかなかった。咲耶はもう寝ているだろう。

 部屋が、静かだった。

七 咲耶

 笑い方を忘れたわけじゃない。

 収録中は笑える。カメラの前では笑える。共演者の冗談に反応して、MCに振られて、ちゃんと笑っている。15歳からこの仕事をしている。8年間、笑ってきた。笑い方は体が覚えている。

 ——でも、楽屋の廊下に出た瞬間に、顔が戻る。

 2週間、こうやって過ごしていた。笑って、戻って。笑って、戻って。表と裏を1日に何十回も切り替えて、切り替えるたびに、裏側の膜が少しずつ薄くなっていく。

 10月。夕方の5時でもう暗い。テレビ局の廊下を歩きながら、スマホを見た。

 大翔からのメッセージ。

『今日もお疲れ様。体調どう?』

 ——いつもと同じ言葉が、刺さる。

 体調。体調は——問題ない。体の傷はもう消えた。痕は残していない。芸能人プロテクション。撮影禁止。痕なし。——あの夜のルールが、こんなところで私を守っている。

『ありがとう。元気だよ。おやすみ』

 嘘。元気じゃない。でも——「会いたい」は打てなかった。会ったら、大翔の目を見たら、大翔の匂いを嗅いだら——私はきっと泣く。泣いたら聞かれる。聞かれたら——。

 送信した。スマホをバッグにしまった。

 蓮さんからのメッセージの通知が、まだ未読のまま溜まっている。もう2週間。既読すらつけていない。——つけたくない。つけたら、あの夜のことを認めることになる気がして。

 楽屋に戻って、荷物をまとめた。メイクを落として、私服に着替えて。鏡の中の自分は——普通だった。普通に見えた。疲れた23歳の女の子。それだけ。

 ——なのに、体の奥に、まだ残っている。

 匂い。

 実際にはもう消えている。2週間も経てば消える。でも——鼻の奥に貼りついている気がする。シャワーを長く浴びるようになった。洗っても洗っても、きれいにならない気がする。

 何が壊れたのか、わからない。体は動く。笑える。仕事ができる。——でも、何かが壊れた。それだけは確かだった。

 楽屋のドアが開いた。

「咲耶ちゃーん、お疲れ〜」

 環さんだった。

 ウェーブのロングヘアを揺らしながら、廊下からぬっと顔を出す。丸い顔。大きな目。厚い唇。——いつもの、おバカっぽい笑顔。

 環さん——。26歳。タレント。元グラビア。大学在学中にスカウトされて、私より3歳年上。キャリアは7年目。グラビアからバラエティ、女優と幅を広げている。業界の先輩。

 同じ番組に出ることが増えて、楽屋で顔を合わせるようになった。「環さん」「咲耶ちゃん」の間柄。深い話はしたことがない。——でも、環さんといると、空気が軽くなる。くだらない話をして、くだらない冗談を言って、笑って。

 今日も——笑った。収録中は。

「お疲れ様です、環さん」

 笑った。いつもの笑顔。——薄い膜の上の、作り物の笑顔。

 環さんが——一瞬だけ、目を細めた。おバカっぽい笑顔のまま。でも目の奥に、何かを読む光が走った。——すぐに消えた。

「ねえ咲耶ちゃん、今日のあのMCのツッコミやばくなかった? もうちょっとで吹き出すとこだった〜」

「あはは、わかります。あれはきつかったです」

 普通の会話。いつもの帰り際の雑談。——普通だ。普通のはず。

 環さんがバッグを肩にかけながら、スマホを見た。「あ〜、今日もごはんひとりか〜」

 それから——ちらりと、私を見た。

「ねえ咲耶ちゃん、今日このあと暇? よかったらうちでごはん食べない? 一人で食べるの寂しいから〜」

 軽い。いつもの軽いノリ。——でも「今日ちょっと元気なかったね」ではなく、「寂しいから」。環さんが寂しいから来てほしいという形にしている。私が弱っていることを、指摘しない形にしている。

 断ろうとした。いつもなら断る。家に帰って、シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。それが2週間のルーティン。

 ——でも。

 一人で部屋に帰るのが怖かった。匂いのない枕。誰もいない部屋。暗闇の中で、あの夜のことが頭の中でぐるぐる回る。

「……行きます」

 声が小さかった。

「やった〜! じゃああとからタクシーで来て。恵比寿だから近いよ〜」

 環さんの部屋は——温かかった。

 恵比寿のマンション。ドアを開けた瞬間に、フルーツ系のシャンプーの甘い匂いが流れ出てきた。温かい照明。散らかっているけれど、清潔。ソファにクッションが3つ。テレビの前にファッション誌が積み上がっている。冷蔵庫にマグネットが並んでいる。——生活感がある部屋。人が住んでいる部屋。

 環さんはスウェットに着替えていた。「あがってあがって〜。スリッパそこにあるから」

 リビングに通された。ソファに座った。環さんがキッチンに消えて——戻ってきた時には、コンビニの袋を持っていた。

「ごはん作ろうと思ったんだけど、冷蔵庫見たらビールしかなかった。コンビニ行ってきちゃった〜」

 お惣菜のパックを並べた。唐揚げ。ポテトサラダ。枝豆。おにぎり。缶ビール。——ちゃんとした食事には程遠い。でも——救われた。誰かが自分のために買ってきてくれた。それだけで。

「いただきます」

「いただきま〜す」

 缶ビールを開けた。ぷしゅ。冷たい。苦い。——2週間ぶりに、誰かと一緒に飲んでいる。

 環さんが唐揚げを頬張りながら、今日の収録の話をしている。MCの裏話。共演者のゴシップ。「あの人ね、実はカツラなんだよ〜」「えっ、嘘ですか」「嘘だけど〜」——くだらない。本当にくだらない。

 笑った。——作り物じゃない笑い方で。2週間ぶりに。

 缶ビールを2本目に手を伸ばした時だった。

「ねえ咲耶ちゃん」

 環さんの声のトーンが——変わった。

 軽さが消えていた。缶ビールを両手で包んで、ソファの上であぐらをかいたまま、私を見ている。丸い顔。大きな目。——その目の奥に、読む光がある。さっき楽屋で一瞬だけ見えたのと同じ光。

「最近、笑い方変わったよね」

 ——固まった。

 心臓が跳ねた。缶ビールの表面が冷たい。指先が——震え始めた。

「……え?」

「楽屋で見てて、思ったんだよね。咲耶ちゃんの笑い方、前と違う。——上手くはなってる。でも、奥が空っぽになった」

 ——バレている。

 2週間、誰にもバレていないと思っていた。プロだから。笑えるから。——でも環さんには、見えていた。

「無理に言わなくていいよ。ただ——私、こういうの見るのわりと得意で。大学で心理学やってたから」

 心理学。——環さんが。あの環さんが。

 沈黙が落ちた。テレビはついていない。窓の外の車の音だけが聞こえている。

 環さんは追い詰めなかった。黙って、ビールを飲んでいる。待っている。急がない。——その「待つ」姿勢が、逆に私の中の何かを緩めた。

 手が——震えていた。缶ビールの表面に結露が垂れている。それを見つめていた。

「……環さん」

「うん」

「……パーティーで——」

 声が途切れた。喉の奥が詰まっている。言葉が形にならない。

「……飲み会に行って。蓮さんの——共演者の人の、友達で。お酒を飲んで——」

 順番がばらばらだった。時系列もめちゃくちゃだった。でも——話し始めたら、止まらなかった。

「——気づいたら——何人か、に」

 声が消えた。最後の言葉が出なかった。

「された」

 ——出た。

 環さんは驚かなかった。顔色を変えなかった。ビールの缶を膝の上に載せたまま、私を見ていた。目から軽さが完全に消えている。観察する目。でも——冷たくない。温かくもない。ただ、受け止める目。

 泣いた。

 声は出さなかった。あの夜と同じ——声を殺して。涙だけが、頬を伝って、顎から落ちて、膝の上のジーンズに染みを作っていく。

「大翔に——言えない。言ったら——」

「——終わるって思ってる?」

「……わからない。でも——汚い。私。もう汚い」

 環さんが——ビールの缶を置いた。

 テーブルの上に。静かに。

 そして——腕を回した。

 ソファの上で。隣に座ったまま。私の肩を引き寄せて、抱きしめた。

「汚くないよ」

 環さんの声。耳のすぐそばで。——温かかった。

 環さんの胸に顔を埋めた。柔らかい。スウェット越しに、環さんの体温が伝わってくる。フルーツ系のシャンプーの匂い。甘い。——あの匂いじゃない。知らない男たちの匂いじゃない。

 泣いた。今度は——声を殺さなかった。環さんの胸の中で、声を出して泣いた。

 環さんは何も言わなかった。ただ抱いている。背中を撫でている。ゆっくりと。上から下へ。繰り返し。——急がない。

 どのくらい泣いたかわからない。涙が枯れかけた頃——環さんの手が、私の顎に触れた。顔を上げさせた。指で涙を拭った。親指の腹で。丁寧に。左の頬。右の頬。目の下。

「ねえ咲耶ちゃん」

「……うん」

「体のこと——上書きってできるの、知ってる?」

「……上書き?」

「嫌な記憶の上に、別の記憶を載せるの。体って、最後に触れた感覚を一番覚えてるから」

 環さんの顔が——近かった。涙を拭う指が、まだ頬に触れている。大きな目が、まっすぐ私を見ている。おバカっぽさがない。真剣な顔。でも——優しい顔。

 環さんの唇が——私の唇に、触れた。

 軽く。確認するように。

「——嫌だったら止めるから。止めてって言ったらすぐ止める。約束する」

 私は——拒否しなかった。

 拒否する力がないのか、求めているのか、自分でもわからなかった。ただ——環さんの唇が、温かかった。柔らかかった。あの夜の——誰かの唇とは、全然違った。

 環さんのキスは——男と全然違った。

 柔らかい。厚い唇がもちっと吸いつく。圧がない。攻めてこない。奪おうとしない。——ただ、触れている。唇と唇が触れ合って、離れて、また触れて。確かめるように。何度も。

 蓮さんのキスは計算だった。角度も、タイミングも、舌の入れ方も。大翔のキスは本能だった。壊したいほど求めてくる。——環さんのキスは、どちらでもない。ただ、そこにいる。一緒にいる。それだけのキス。

 環さんの舌が——入ってきた。ゆっくりと。

 びくっ、と体が震えた。

 ——蓮さんの舌。知らない男たちの舌。何本もの舌が、口の中に入ってきた。あの夜の。

「——大丈夫?」

 環さんが止まった。唇を離して、私の目を見ている。

「……大丈夫」

 環さんの舌は——違った。

 長い。柔らかい。探るのではなく、撫でるように動く。口の中を全部、ゆっくりとたどっていく。歯の裏側。頬の内側。舌の上。舌の裏。——侵入ではなく、挨拶。「ここにいるよ」と言っている舌。

 唾液が甘かった。ビールの苦みの下に、環さんの——女の子の甘さ。

 目を閉じた。

 環さんのキスを——受け入れていた。体が、少しずつ、緩んでいく。肩の力が抜ける。背中の強張りが溶ける。——環さんの唇と舌が、私の体から「緊張」を、一枚ずつ剥がしていく。

「——ん……」

 声が漏れた。自分の声に驚いた。——いつから、声を出していなかっただろう。

 環さんが唇を離した。糸が引いて切れた。

「ベッド行こ。ソファだとせまいから」

 環さんが私の手を取った。引いた。指が温かかった。

 寝室に入った。ベッド脇のゴミ箱に、四角い包み紙のようなものが見えた。——環さんにも、誰かがいるのかもしれない。気にしなかった。

 ベッドの前で——環さんが、自分のスウェットを脱いだ。一息で。下も。

 先に脱いでくれている。——見せることで、安心させてくれている。

 Eカップの胸。もちっとした白い肌。丸い顔に似合う、丸みのある体。乳首はピンク色で、もう硬くなっていた。ウエストがくびれて、腰が丸い。——女の体。丸い。全部が丸い。

「……綺麗」

 環さんが笑った。「咲耶ちゃんに言われたら嬉しいな〜」

 環さんの手が——私の服に伸びた。ブラウスのボタン。ひとつずつ。ゆっくりと。

 体が——強張った。

 環さんが止まった。「——大丈夫。私だよ」

「……うん」

 ボタンが全部外れた。ブラウスが肩から滑り落ちた。ブラのホックを——環さんの指が外した。手慣れていた。

 Hカップの胸が——露わになった。

 環さんが見ている。じっと。——でも、男の目じゃなかった。欲望のフィルターがない。値踏みするような視線がない。

「……すごいね、咲耶ちゃん。綺麗」

 「綺麗」と言う時の目が——本当にただ綺麗だと思っている目だった。グラビアで何万人もの男に見られてきた。でも——こんな目で見られたのは、初めてだった。

 スカートも脱いだ。下着も。全部。——環さんの前で、裸になった。

 恥ずかしかった。でも——怖くなかった。

 環さんの掌が、私の胸に触れた。包み込むように。乳首には触れない。形を確かめるように。両手で。ゆっくりと。

「……大きいね。すごい。張りがある」

 そこから——胸にキス。鎖骨。首筋。肩。環さんの厚い唇が、肌の上を移動していく。一ヶ所ずつ。丁寧に。スタンプを押すみたいに。ここ。ここ。ここ。——私の体の全部に、環さんの唇の跡を残していく。

 乳首に——唇が触れた。

 長い舌が、乳輪をぐるりと一周した。それから乳首を含んで——吸った。

「——あっ」

 声が出た。反射的に。——乳首の感度が高い体質が、恨めしかった。でも——今は違う。感じていることが、嬉しかった。体が壊れていないことの証拠だから。

 環さんが左右を交互にした。右を吸って、左を舐めて。片方を放置すると——放置された側が疼く。待っている。「次は私」と主張している。

「——ここ弱いの、わかるよ。私もここ弱いから」

 環さんは笑いながら言った。同じ体を持つ者同士の、秘密の共有。

 私の体が——少しずつ、強張りが解けていった。環さんの唇と舌と手が、2週間分の緊張を、融かしている。

 環さんが——下へ降りていった。

 腹にキス。へその横。腰骨。太腿の内側。——焦らしているわけじゃない。ただ、順番に。私の体を全部確認するように。「ここも大丈夫」「ここも」「ここも」——そう言っている唇。

「ここ——触っていい?」

「……うん」

 環さんの長い舌が——私の秘所に、触れた。

 ぷちゅっ。

 ——音がした。舌が触れた瞬間に。膣口から。自分の体が出した音。キスと、胸と、乳首への愛撫で2週間分の緊張がほどけて——体がもう、先に答えていた。溢れていた。環さんの舌の先に、温かい液が触れるのがわかった。

 恥ずかしかった。こんな音を——聞かれた。でも環さんは何も言わなかった。ただ、舌を動かし始めた。私の液ごと、舐め取るように。

 体が震えた。——でも、あの夜の震え方じゃなかった。恐怖じゃない。

 男と——全然違った。

 蓮さんの舌はテクニカルだった。的確で、計算されていて、Gスポットを狙い撃ちにする舌。あの夜の——知らない男たちの舌は暴力だった。侵入する舌。支配する舌。

 環さんの舌は——広い。長い。面で触れる。粘膜の全体を、包み込むように。

 クリトリスを直接攻めない。周辺を。入り口を。大陰唇の外側をゆっくりなぞって、小陰唇を一枚ずつ舐めて。——全体を、温めるように。

 体が——反応し始めた。もっと濡れてくる。自分の意思とは関係なく。

「——あ……っ」

 声が漏れた。自分の声に——驚いた。あの夜以来、体が反応することが怖かった。濡れることが怖かった。声が出ることが怖かった。——でも、環さんの舌は怖くない。

 環さんがクリトリスに舌を当てた。長い舌で包み込むように。唇で挟んで、舌先で転がす。ちゅ、と吸い上げた。

 腰が浮いた。太腿が——環さんの頭を挟んだ。引き寄せている。自分から。

「——環さん——っ、あ——だめ——っ」

「いいよ。そのまま。いけるよ」

 環さんの声が——秘所に直接響いた。舌を当てたまま喋っている。振動が、クリトリスに伝わる。

 泣いていた。いつから泣いていたかわからない。涙が頬を伝って、枕に落ちている。快楽で泣いているのか、安堵で泣いているのか。——きっと両方だった。

 体が——震えた。下腹の奥から、温かい波がせり上がってきた。

「——ひっ——」

 高い声が出た。自分のものだと思えなかった。

 達した。

 小さく。静かに。体が丸くなって——そして、ほどけた。力が全部、指先から流れ出ていった。

 環さんが顔を上げた。唇が濡れている。——笑っていた。いつもの軽い笑顔。でも目が優しい。

「——ほら。ちゃんと感じてる」

「中も確かめていい?」

「……うん」

 環さんの指が——入り口に触れた。中指。細い。爪が短い。——男の指じゃない。

 ゆっくりと。1本。入っていく。

 息が止まった。

 フラッシュバック。——太い指。何本も。次々に。無造作に突き込まれる指。痛かった。嫌だった。

 環さんが止まった。指を入れたまま、動かない。

「……大丈夫。私の指だよ。細いでしょ?」

「……うん」

 環さんの指は——細かった。温かかった。爪が短い。——男の指とは、全然違う。

 受け入れた。膣壁が——環さんの指を包んだ。締め付けない。緩んでいる。——信頼の証だった。

 環さんの指が——動き始めた。膣内で。お腹側の壁を、指の腹で撫でている。「おいでおいで」の動き。Gスポット。

 同時に——舌がクリトリスに戻った。外と中。二重の刺激。

「——あっ——」

 声が大きくなっていた。さっきより。——止められなくなっている。

 指が2本になった。少しだけ広がる。膣壁が——指の形に沿って開いていく。痛くない。怖くない。環さんの指だから。

 環さんの指が、Gスポットを撫でるたびに——体の奥から、さっきとは違う波が押し寄せてくる。外からの波と、中からの波。二つが合流して——一つになる場所がある。そこに向かっている。

 腰が動いていた。自分から。環さんの指を——もっと奥に。もっと強く。体が求めている。

「——あっ——っ、あ——環さん——っっ——」

 名前の最後が声にならなかった。目の前が白くなった。

 達した。2回目。さっきより——深かった。背中が反った。足の指が丸まった。膣が——環さんの指をぎゅうっと締め上げた。

 泣いている。また。でも——笑ってもいた。泣きながら笑っていた。

 環さんが指をゆっくり抜いた。濡れた指が空気に触れて、私の匂いと環さんの匂いが混ざったものが——ふわりと鼻に届いた。

「……うん。中も大丈夫。壊れてないよ、咲耶ちゃん」

 2回イった後の体が、ベッドの上で弛緩していた。

 環さんが隣に寝転がって、私の髪を撫でている。指が頭皮を優しくかいて、毛先を梳いて。——気持ちいい。体がほどけている。

 横を向いた。環さんの体が——目に入った。

 Eカップの胸。汗がうっすら浮いて、肌が薄く光っている。乳首が——まだ硬いままだった。太腿の内側も——濡れている。

 環さんも——興奮しているのだ。私を気持ちよくさせながら、自分も感じていた。

「……環さん」

「ん?」

「……私も——環さんに、したい」

 環さんが——一瞬、驚いた顔をした。大きな目がさらに大きくなった。

「いいよ、私は——」

「したい。——環さんだけ気持ちよくないのは、嫌」

 自分でも驚いた。こんな言葉が出てくるとは。2時間前の私なら——言えなかった。環さんが2回、体を確かめてくれたから。壊れていないと教えてくれたから。——だから、今、言える。

 環さんの目が——変わった。おバカっぽさが消えて、素の目になった。

「……じゃあ、お願いしようかな」

 小さく笑った。照れている。——リードする側の環さんが、受ける側になる瞬間。

 環さんの上に——覆いかぶさった。初めて、自分が上になった。

 環さんの胸に手を置いた。Eカップ。私より小さい。でも柔らかさは同じ。掌に収まる。温かい。

 どう触ればいいかわからない。——でも、さっき環さんにされたことを、そのまま返せばいい。

 乳首に唇を寄せた。舐めた。ぎこちない。環さんのようにうまく動けない。でも——丁寧に。

「——ん……っ」

 環さんの声。小さい。——演技じゃない。環さんの体が、私の舌に反応している。

 乳首が口の中で硬くなっていく。——自分と同じだ。同じ場所が、同じように反応する。同じ体を持つ者同士だから——わかる。ここが気持ちいいことを。

 もう片方にも。交互に。吸って、舌で転がして。さっき環さんにされた通りに。

「——咲耶ちゃん……上手い……」

「嘘。下手でしょ」

「……下手だけど——気持ちいい。気持ちは伝わるから」

 環さんの手が——私の頭に添えられた。撫でるように。導くのではなく、受け入れている手。

 下へ——降りていった。環さんの腹にキス。へそ。恥骨の上。

 環さんが脚を開いた。

 ——初めて見る。自分以外の、女の秘所。

 ピンク色。潤んでいる。小陰唇が薄く開いて、中が光っている。環さんの愛液。——私が触れる前から、もう濡れていた。

「……綺麗」

 思わず言った。——本当に、綺麗だった。

 環さんが「ふふ」と笑った。「咲耶ちゃんのほうが綺麗だよ」

 舌を——伸ばした。環さんのクリトリスに。恐る恐る。どのくらいの力でいいのかわからない。

「——あ……っ」

 環さんの腰が微かに揺れた。——反応した。私の舌で。

 さっき環さんにされたことを思い出す。面で触れる。ゆっくり。大陰唇をなぞって、小陰唇を舐めて。——自分の体と同じ構造。自分が気持ちいいところは、環さんも気持ちいいはず。

 クリトリスを唇で挟んだ。舌先で転がした。——環さんの腰がびくっと跳ねた。

「——っ、そこ——咲耶ちゃん——」

 環さんの声が——変わっていた。低い。かすれている。さっきまでリードする側にいた余裕が、消えている。

 もっと。——もっと気持ちよくしたい。

 入り口を舐めた。中に少しだけ舌先を入れた。環さんの舌ほど長くはない。でも、届く範囲で。環さんの膣壁が——私の舌に反応して、きゅっと締まった。

「——やっ……、ん——っ——」

 抑えようとして漏れた声だった。リードする側の環さんが、声を堪えている。太腿が震えている。手がシーツを掴んでいる。呼吸が浅い。

 クリトリスに戻った。集中して。吸い上げた。ちゅ、ちゅ、と。さっき環さんにされたのと同じ音を立てて。

「——咲耶ちゃん——っ、あ——っ、私——っ」

 環さんの体が——弓なりに反った。

 腰が跳ねた。太腿が私の頭を挟んだ。——環さんの膣から、愛液がとろりと溢れた。私の唇に。甘い。温かい。

 環さんの絶頂を——自分の舌で作った。

 その事実が——胸の中で、温かく広がった。

 私は——まだ、誰かを気持ちよくさせることができる。壊れていない。受けるだけじゃなく——与えることができる。

 環さんが手で顔を覆っていた。

「……やば。本気でイっちゃった」

 頬が赤い。——さっきまでリードしていた環さんが、赤くなっている。

「……初めてなのに……本当に初めて?」

「初めて。——だって、環さんにされたことをそのままやっただけ」

「……それが一番上手いやり方なんだけどね」

 環さんが笑った。少しだけ軽さが戻った笑顔。——でも頬はまだ赤い。

「ねえ——同時にしよ。私もまだ咲耶ちゃんのこと舐めたいから」

 環さんが私の上に——逆向きに覆いかぶさった。

 69。

 環さんの秘所が、私の顔の上に降りてきた。さっきの絶頂で溢れたまま、光っている。フルーツ系のシャンプーの残り香。その下に——甘い。わずかに酸味のある、体温と同じ温度の匂い。舌を伸ばした。味がした。生きている味。あの夜の匂いとは全然違う。

 同時に——環さんの舌が、私の秘所に触れた。

 今度は——膣口に。直接。舌先がゆっくりと、中に入っていく。

 体が跳ねた。——中に舌が入る感覚。あの夜——知らない男が舌を入れてきた記憶が、一瞬よぎった。

 でも、上にいるのは環さん。環さんの体温。環さんの匂い。環さんの——柔らかい舌。

 環さんの舌は——「侵入」じゃなかった。「抱擁」だった。

 膣壁を、内側から、くるくるとなぞっている。壁を全部たどるように。奥に届く——環さんの舌は長いから。同時に鼻先がクリトリスを押している。

 私も——上にある環さんの秘所を舐め始めた。さっきよりは慣れている。クリトリスを見つけて、舐めて、吸う。指も1本入れてみた。——環さんの膣が、私の指を歓迎するようにきゅっと締まった。

「——んー……っ」

 環さんの声が——私の膣の中で振動した。

 その振動で体が跳ねた。環さんが喘ぐたびに、唇が震えて、膣壁を震わせる。私が喘ぐたびに、同じことが環さんに起きる。——フィードバック。終わらない連鎖。

 環さんの長い舌が膣壁を這っている。柔らかくて温かいもので、中を満たされている。指よりずっと繊細で、ペニスよりずっと優しいもの。

「——あ——っ、環さん——なか——っっ」

 言葉が途切れた。環さんの舌が奥で動いて、声が全部持っていかれた。

「——んー……っ」

 返事は膣内の振動だけ。その振動が——体の芯を震わせた。

 互いの快感が互いを加速させていた。舌が動くたびに声が漏れ、声が振動になり、振動がまた声を引き出して——

 波が来た。下腹の奥から。3回目の波。

「——っ、あ——っ——たま——っっ——」

 ——環さんの名前を、初めて呼び捨てにしていた。声が勝手に。

 達した。3回目。環さんの舌を膣で締め上げながら。——中にあるもので気持ちよくなれた。男のものじゃなくても。暴力じゃなくても。体が応えた。

 涙がまた出ていた。もう——怖くて泣いているんじゃなかった。

 私が達した波が——唇を通じて環さんに伝わった。私の喘ぎの振動が、環さんのクリトリスに。

「——っっ——」

 環さんの腰が大きく震えた。太腿が痙攣した。

 環さんも——達した。私のほぼ直後に。二人の絶頂が重なりかけた。

 環さんが私の上で崩れた。互いの太腿に顔を埋めて。荒い息が互いの秘所にかかっている。

「……最後に——繋がりたい。いい?」

 環さんが起き上がった。まだ息が整っていない。頬が紅潮したまま。

 ベッドサイドの引き出しを開けた。取り出したのは——両端が滑らかに膨らんだ棒状のもの。淡いピンク色。シリコン製。柔らかそうだった。

「これ——知ってる?」

 首を横に振った。

「二人で使うの。片方ずつ入れて——繋がるの」

 目が——少しだけ開いた。怖さじゃなかった。好奇心と、期待。

「一人で気持ちよくなるんじゃなくて——二人で。私も一緒に感じるから」

 環さんがローションを塗った。丁寧に。片方の端を——自分に入れた。ゆっくりと。

「ん……っ」

 環さんが声を漏らした。作り物じゃない声。——環さん自身も、感じている。

 もう片方の端が——私のほうに向けられた。

「……入れていい?」

「……うん」

 ゆっくりと。入ってきた。

 シリコンの滑らかな表面。人肌より少しひんやりしている。——でもすぐに、体温で温まった。

 そして——環さんの体温が、ディルドを通じて伝わってきた。

 繋がっている。一本の、柔らかいもので。環さんの膣と、私の膣が。

「——あ……」

「ん……」

 同じ瞬間に、同じものを感じている。

 硬くない。脈打たない。——でも、その向こう側に環さんがいる。環さんが動けば、私に伝わる。私が動けば、環さんに伝わる。

 脚を交差させた。互いの内腿の上に脚を載せて。向かい合う。——環さんの顔が見える。環さんの目が、私を見ている。

 環さんが腰をゆっくり動かした。前後に。ディルドが私の中で動く。——同時に、環さんの中でも動いている。

「——ん……っ」

「——あ……」

 二人の声が交互に漏れた。

 環さんが——私の手を取った。指を絡めた。手を繋いだまま、腰を動かしている。

 私の腰が——動き始めた。自分から。環さんのリズムに合わせて。

「咲耶ちゃん——動いてる」

「……うん」

 うん。動いてる。——もう、誰かに動かされているんじゃない。

 二人のリズムが噛み合っていった。ディルドが中で動くたびに、水音が鳴る。二人の愛液がディルドの上で混ざっている。ぐちゅ、ぐちゅ、と。——恥ずかしかった。でも、止めたくなかった。

 環さんの顔が——変わっていた。おバカっぽさが完全に消えている。目が潤んでいる。唇を噛んでいる。——素の顔。あの軽さが全部剥がれた、本気の顔。

「——咲耶ちゃん——っ、私——先に——」

 私が腰のペースを上げた。——環さんのために。環さんをイかせるために。

「——ん——っっ——」

 環さんの体が震えた。膣がぎゅっと締まった——その収縮がディルドを通じて私に伝わった。ディルドが私の中でびくん、と跳ねた。

 環さんが達した。3回目。

 その振動が——私の限界を押し越した。

「——あ——っ」

 私も達した。4回目。環さんの直後に。連鎖で。——繋がっているから。

 でも——まだ止まらなかった。ディルドはまだ中にある。環さんの手を、まだ握っている。

「……もう1回——一緒に。いい?」

 自分の声だった。自分から——求めていた。

 環さんの目が見開かれた。「——うん」。声が震えていた。もう完全に素の環さんだった。

 二人の腰が動き始めた。今度は——待たない。私が押せば環さんが迎え、環さんが引けば私が追う。

 リズムが合っていく。同じ速さ。同じ深さ。同じ角度。手を繋いでいる。指が白くなるほど握り合って。

 声が出なくなった。息だけが、互いの肌の上で震えていた。

「——気持ちいい」

 静寂を破ったのは、自分の声だった。あの夜以来初めて。快感を、自分の言葉にした。

「——私も——気持ちいい——っ」

 環さんが答えた。声が裏返りかけていた。——もう演技じゃない。

 加速した。二人同時に。押して、引いて、押して。波がどちらから来るのかわからない。私の膣が締まれば環さんが喘ぎ、環さんが震えれば私の腰が跳ねる——境界が、溶けていく。

 私の膣がきゅっと締まった。同時に——ディルドの向こうで環さんの膣も締まるのが伝わった。お互いの収縮が、ディルドを介して伝わり合う。

「——あ——っ、あっ——環さん——っ」

「——ん——っ、咲耶ちゃん——っっ——」

 互いの名前が重なった。声が溶けた。

「——一緒に——」

 達した。5回目。環さんも——4回目。同時に。

 二人の体が同時に震えた。繋がったまま。手を握ったまま。一人の絶頂がもう一人の絶頂を引き出して、それがまた返ってきて——連鎖。波が何度も行き来する。

 声が重なった。二人の声が一つになった。

 ——長かった。今夜一番長い絶頂。波が行って、戻って、行って、戻って——どこまでが私で、どこからが環さんなのか、わからなくなるまで。

 波が——収まった。二人とも動けなかった。繋がったまま。手を握ったまま。

 環さんがゆっくりとディルドを抜いた。私から先に。——ぬるり、と。愛液が糸を引いた。自分からも抜いた。

 ベッドに横たわった。並んで。裸のまま。

 環さんが私のほうを向いた。目が潤んでいた。——さっきまで見せなかった顔。

「……ねえ。私も——気持ちよかった。ありがとう、咲耶ちゃん」

 小さく笑った。いつもの笑顔。——でも今は、少しだけ本音が見えていた。

 裸のまま抱き合った。環さんの胸に顔を埋めた。ふわりと沈む柔らかさ。心臓の音が聞こえる。とくん、とくん。規則正しい。

 環さんが髪を撫でてくれた。「よく頑張ったね。——よく頑張った」

 肌と肌が隙間なく触れている。体温が溶け合っている。——一人じゃない。この温かさは、一人では作れない。

「ねえ咲耶ちゃん」

「……うん」

「ちゃんと感じてたよ。ちゃんと濡れてた。ちゃんとイけた。——壊れてないじゃん」

 環さんの声は軽かった。いつもの軽いトーンに戻っている。——でも言葉は正確だった。

 壊れてない。体は。反応は。感じる力は。——そして、与える力も。

「——でも、心は」

「心は——自分で治すしかないよ。私にできるのは体だけ。でも体が壊れてないなら——心もいける」

「……環さん、心理学詳しいんだね」

「大学でちょっとね〜。全然勉強してなかったけど」

 嘘だ。——ちゃんとやっていた人の目だった。さっきまでずっと。

「ねえ咲耶ちゃん」

「うん」

「今日のこと——誰にも言わないでね。彼氏さんにも」

「……うん」

「私たち、いい先輩後輩でいようね。——今日は特別。こういうことが必要な時もあるから」

 環さんが——線を引いた。優しく。でも、はっきりと。今日は特別。明日からはまた、「環さん」「咲耶ちゃん」の間柄。

「……環さん」

「ん〜?」

「……ありがとう」

「やだ、気持ち悪〜い」

 おバカっぽい声。——でも、背中に回された手が、少しだけ強く私を抱いた。指先に力がこもって——すぐに、緩んだ。

 玄関まで送ってくれた環さんは、いつものおバカっぽい笑顔だった。「またね〜」と手を振って。ただ——ドアが閉まる直前、一瞬だけ、目がどこか遠くを見ていた気がした。

 気のせいかもしれない。

 タクシーの窓の外を、渋谷の灯りが流れていく。

 体が——軽かった。

 あの「知らない匂い」が——遠くなっていた。完全には消えていない。でも——上に一枚、環さんの匂いが載っている。フルーツ系のシャンプー。甘い。温かい。あの匂いを包み込むように覆っている。

 ——でも、最後に必要な匂いは、これじゃない。

 「壊れてない」。環さんがそう言った。体は。感じる力は。——与える力も。

 ——大翔に、会いたい。

 まだ言えない。あの夜のことは——まだ。でも——会いたいと思えるようになった。2週間ぶりに。

 スマホを開いた。大翔のメッセージ画面。

 さっき送った『おやすみ』が最後のメッセージ。その上に大翔の『体調どう?』。その上に——何週間分もの、短いやり取り。

 指が——動いた。

『……会いたい』

 打って。——消して。また打って。——消して。

 打った。

 送信した。

 画面が——滲んだ。また泣いていた。タクシーの窓に映った自分の顔が、ぐちゃぐちゃだった。

 既読はすぐについた。——大翔は、まだ起きていた。

 返信が来た。

『いつでも会える。いつでも迎えにいく』

 ——大翔。

 大翔の匂いが恋しい。あの重くて甘い、カルキみたいな匂い。首筋に顔を埋めた時に鼻の奥に広がる、あの匂い。

 もう少し。もう少しだけ、時間がほしい。でも——行く。大翔のところに。ちゃんと帰る。

 環さんが言った。「壊れてない」と。

 壊れていないなら——帰れる。大翔の匂いの中に。

 タクシーが首都高に入った。遠い灯りが流れていく。

 スマホを胸に当てた。大翔のメッセージの温度を、感じるように。

八 咲耶

 12月。

 ふと、笑っていた。

 収録が終わって、楽屋に戻って、メイクを落として。鏡の前で——笑っていた。カメラの前の笑顔じゃない。誰かに見せるための笑顔でもない。共演者が帰り際に言ったくだらない冗談を思い出して、一人で、ふっと。

 それだけのことが——2ヶ月前にはできなかった。

 治ったわけじゃない。あの夜のことは、まだ体の奥に沈んでいる。でも——沈んだまま、その上で息ができるようになった。

 環さんとは、何事もなかったように「環さん」「咲耶ちゃん」に戻っている。楽屋で会えば「今日の衣装かわいい〜」「ありがとうございます」。それだけ。あの夜のことは、空気の中に溶けて消えた。——でも、時々。目が合うと、環さんが小さく頷く。「うん、大丈夫そうだね」と言うように。私も頷き返す。それで十分だった。

 蓮さんのメッセージは、まだ未読のまま溜まっている。通知の数字が23になった。もう怖くはない。——ただ、開く意味がなかった。あの人に抱かれた時の感覚すら、もう輪郭がぼやけ始めている。どこを触られたか。どんな声で囁かれたか。どんな顔でイったか。——完璧だったはずなのに、思い出そうとすると指の間から零れていく。大翔に抱かれた記憶は4年経っても肌の奥に残っているのに。

 大翔とのメッセージは——少しだけ、変わった。

 あの夜——環さんの部屋で泣いて、タクシーの中で『会いたい』を送った夜。大翔は『いつでも会える。いつでも迎えにいく』と返してくれた。それから6週間。

 以前は『おやすみ』『お疲れ様』しか打てなかった。今は——少しだけ長くなった。

『今日は寒かったな。現場の暖房壊れてて、ダウン着たまま編集した』

『うわ。大翔の体温高いから大丈夫でしょ』

『85キロあっても寒いもんは寒い』

 笑った。スマホの前で、一人で。——大翔の言葉が日常を運んでくる。府中のマンションの温度が、メッセージ越しに伝わる。

 でも——「次いつ会える?」とは書いてこない。

 『いつでもいいよ』。あの一言のまま。大翔は急かさない。待っている。私が言うのを。2ヶ月半、ずっと。

 「今度の週末」と打とうとする。指が止まる。——何度目だろう、これは。会ったら、大翔の目を見たら。大翔の匂いを嗅いだら。——全部話さなきゃいけない。話す覚悟が、まだ喉の奥で固まっている。

 12月の、ある夜。

 仕事が休みの日だった。一人暮らしの部屋。窓の外は暗い。冬は5時でもう暗くなる。暖房のリモコンを押した。ぱちん。温風が足元を撫でた。

 シャワーを浴びた。パジャマに着替えた。髪がまだ湿っている。タオルを肩にかけたまま、ベッドに座った。

 テーブルの上にスマホ。大翔のメッセージ画面が開いている。

『今日は現場早く終わった。咲耶は?』

 休みだった。何もない一日だった。——でも。

『今日は遅くまで収録だった。さっき帰ってきたとこ』

 嘘。朝からずっとこの部屋にいた。シャワーを浴びて、ベッドに座って、何もしないまま夕方になった。——でも「休みだよ」とは打てなかった。休みだと言ったら、大翔は「じゃあ会えるか?」と聞くかもしれない。聞かれたら——断れない。断りたくないのに、まだ会える気がしない。

『お疲れ。あったかくして寝ろよ』

 ——優しい。大翔はいつも優しい。嘘をついている私に、あったかくして寝ろ、と言う。

 スマホを胸の上に置いた。天井を見た。——大翔は現場が早く終わった夜に、私にメッセージを送っている。私は休みの夜に、嘘をついて一人でいる。

 会いたい。——でも、まだ。

 今夜は、いつもと違う何かがある。胸の奥に。「まだ」の奥に。もっと下の——体の真ん中に。

 自分の体から、シャンプーの匂いがした。

 環さんのフルーツ系とは違う。自分のシャンプー。無香料に近い、薄い匂い。——でも、その下に。もう一つの匂いを、鼻が探している。

 大翔の匂い。

 6週間前、環さんの匂いがあの夜の匂いを覆ってくれた。フルーツ系の甘さが、知らない男たちの匂いの上に載って、息ができるようにしてくれた。——でも環さんの匂いの下に、まだある。もっと古い匂い。環さんよりもっと前の。あの夜よりもっと前の。——4年分の。

 最後に嗅いだのはいつだろう。9月の夜。久しぶりに会えた、あの夜。もう3ヶ月前。——あの夜の大翔の匂いは、いつもより薄かった。噛み合わなかった夜だったから。獣が起きなかった夜だったから。

 もっと前。もっと濃い匂いを探す。記憶の中に。

 ——ある。

 薄い。でも確かにある。鼻の奥の奥に——カルキみたいな。でもカルキとも違う。もっと生臭くて、もっとねっとりした。鼻の奥にべたっとへばりつくような、重たい匂い。

 ——知っている。19歳の夜に初めて嗅いだ時、体が「知っている」と言った匂い。もっと前から知っていた匂い。暗い廊下。幼い夜。父の匂い——。

 今は、それが恋しい。

 匂いを辿ると——体が、思い出し始めた。

 大翔の手。85kgの体の、分厚い掌。私の腰に回された時の——ずしりとした重さ。片手で太ももをほとんど一周できてしまう手。あの手が腰骨を掴むと、もう逃げられない。

 185cmから見下ろされる感覚。座ると、私の顔が大翔の胸の高さに来る。首を上げないと目が合わない。私の肩幅が、大翔の胸板の幅に、すっぽり収まってしまう。

 ——小さい。大翔の前では、いつも小さい。36cm。数字にすれば、それだけ。でもベッドの上では——世界が傾く。大翔に覆いかぶさられると視界が全部大翔になる。天井が消える。壁が消える。大翔の胸板と腕と匂いだけが世界になる。

 胸を掴まれた時の——力加減を知らない手。片手で鷲掴みにされて、指が食い込んで、痛いのに——やめてほしくなかった。痛みの奥から、甘い痺れが滲んでくる。あの手で乳首を転がされると、電流みたいなのが腰まで走る。——体が覚えている。頭よりずっと正確に。

 体温。大翔の体温は、いつも高い。私の白い肌に触れると、その温度差が——じんわりと染みてくる。抱きしめられると、熱い。大翔の汗と私の汗が混ざって、肌がぬるぬるに滑る。——あの滑り方。服の上からでは絶対にわからない、裸と裸の間にしかない感覚。

 匂いが——もっと濃くなる。記憶の中で。カルキ。汗。石鹸。——あの匂い。精液の匂い。栗の花みたいな。部屋中に充満する、あの粘りつく匂い。

 大翔の目。

 ——獣の目。ギラギラした。ネトネトした。普段の優しい大翔からは想像もできない——あの目。

 あの目が、怖くて。気持ちよかった。

 蓮さんのセックスには、あの目がなかった。環さんとの夜にも。あの夜の男たちにも。——あの、呑み込まれるような、食い尽くされるような、理性が全部溶けて本能だけで動く——あの目。

 あれが足りなかったのだ。

 ずっと。蓮さんでも、環さんでも、誰でも——埋められなかったもの。

 大翔の獣性。あれだけが、私の体の一番奥まで届く。

 下腹が——熱くなっていた。パジャマの下で。シャワーを浴びたばかりなのに。

 ふと、手が下腹に触れていた。意識せずに。——下着の上から。

 濡れている。

 大翔を思い出しただけで。匂いを探しただけで。——体が、もう先に答えていた。

 「……ダメだ」

 と思った。でも手は止まらなかった。環さんが言っていた。「体って、最後に触れた感覚を一番覚えてるから」。今、私の体が一番覚えている感覚は——環さんの舌。その下に——大翔。もっと下に——。

 パジャマのボタンを外した。下着をずらした。ベッドに仰向けになった。髪がまだ少し湿っている。枕に広がる。天井が見える。——白い天井。いつも一人で見上げている天井。

 目を閉じた。

 大翔の顔を思い浮かべる。

 最初は——穏やかな大翔。車の中で「おはよう」と言う時の声。低くて、温かくて、眠い朝でもその声を聞くと安心する声。笑うと目じりに皺ができる。36歳の時は浅かったその皺が、40歳で少しだけ深くなった。——その顔が、好きだ。

 指がクリトリスに触れた。

 環さんに舐められた時の感覚をなぞる。あの長い舌。あの柔らかさ。——環さんの舌は上手かった。でも今、自分の指で同じ場所に触れても、全然違う。

 違う。今ほしいのは、こんなのじゃない。

 もっと——。

 ——映像が、切り替わった。

 暗い部屋。府中のマンション。706号室。いつもの1LDK。——カーテンが閉まっている。

 目隠しをされている。柔らかい布。大翔がネクタイ代わりに使っていたスカーフ。視界が消えると——音が大きくなる。自分の呼吸が耳の中で響く。大翔がどこにいるかわからない。

「動くな」

 低い声。命令形。普段は使わない。セックスの時だけ出てくる——あの声。

 体が震えた。——記憶の中の体が。今の体も。同時に。

 どこに触れられるかわからない。首筋に息がかかった。——耳の後ろ。鎖骨。胸の上を、指先が滑る。触れるか触れないかの距離で。焦らされている。——怖い。でも。

 来る。来る。でもどこに——。

 指が——いきなり、中に入った。予告なく。太い指。1本で十分すぎるほど太い。

「ここか」

 短い言葉。——でもその声の低さで、体がびくんと跳ねた。

 指が膣内で曲がる。前壁を撫でる。——Gスポット。大翔はもう場所を知っている。何度も何度も、あの太い指で開拓してきたから。

 あの頃の私は——まだ怖がっていた。でも「試してみる?」と大翔が言うと、断れなかった。断りたくなかった。怖いのに、次が知りたかった。——あの「次が知りたい」は、蓮さんに「次こそは」と期待した気持ちとは、全然違う。大翔への「次」には底が見えない。蓮さんへの「次」は——底に着いていた。

 指が速くなっている。——自分の指が。記憶の中の大翔の指に合わせて。

 でも——違う。自分の指は細い。短い。大翔の太い指の、あの圧がない。あの深さがない。

 クリトリスを擦る。速く。速く。——波が来る。

「——っ」

 小さく達した。体がびくっと震えて——すぐに収まった。

 ……物足りない。

 体の表面だけが震えて、奥は静かなまま。火花が散っただけ。——それだけだった。

 蓮さんの後と同じだった。あの時も——達したのに、体の奥が静かだった。完璧なのに、壊されていなかった。

 外だけじゃ足りない。もっと奥。もっと中を。——大翔が触った場所を、自分の手で。

 指を2本、中に入れた。

 ゆっくりと。自分の指は環さんの指より太い。でも大翔の指にはほど遠い。まして——大翔のあれには、到底。

 膣壁が指を包む。温かい。——この壁は、覚えている。大翔のペニスの形を。長さを。亀頭のカリの段差を。血管の筋を。4年分の記憶が、壁に刻まれている。指2本では、届かない場所がある。子宮口に直接当たる感覚。あれは大翔のペニスでなければ——。

 ——映像が、切り替わった。

 もっと激しい夜。もっと深い夜。

 腰を掴まれた。両手で。ひっくり返された。うつ伏せ。顔が枕に押しつけられる。大翔の体重が——背中にかかる。85kg。逃げ場がない。

 何も言わない大翔。もう言葉を失っている。唸り声だけ。獣みたいに。——人間の言葉が出てこなくなった大翔。体ごとぶつかってくる。理性なんて残っていなくて、ただ本能で、私を——。

 速い。深い。容赦がない。引いて、叩きつける。引いて、叩きつける。ベッドが軋む音と、肉が打ちつける音と、水音が混ざって——。

 大翔の目が——ギラギラしていた。振り返って見た、あの目。あの夜の父と同じ目。ネトネトした、獣の目。

 怖い。本当に怖い。——なのに膣が締まる。体が応えている。怖いから締まっているのか、気持ちいいから締まっているのか——あの頃はわからなかった。今は、わかる。

 両方だ。怖いから、気持ちいい。奪われるから、満たされる。——矛盾しているのに、体はそれを知っている。

「やめ——」

 と言おうとした。あの夜も。口を開いた。でも出てきたのは——

「——もっと、……奥……っ」

 自分の声。あれだけ「やめて」と言っていた唇が——初めて、求めた瞬間。あの声が出た時の、大翔の目。獣の奥に、一瞬だけ——人間が見えた。嬉しそうだった。私が自分から求めてくれたことが。

 獣のまま「好きだ」と言う。暴力みたいに抱いて、その腕で包む。——あの矛盾。あの矛盾だけが、私の体の一番深いところに届く。

 指が——動いている。速く。深く。記憶の中の大翔のピストンに合わせて。——届かない。指じゃ届かない。でも体が覚えている。奥を突かれる感覚を。子宮口を叩かれる衝撃を。自分が自分じゃなくなるくらいの——。

 匂いが——鼻の奥に広がる。記憶の中の。カルキ。栗の花。生臭くて、ねっとりして、鼻の奥にべたっとへばりつく匂い。大翔の精液の匂い。部屋に充満する匂い。——あの匂いに包まれたい。あの匂いの中で溺れたい。

 腰が浮いている。ベッドのシーツを握っている。片手で。もう片方の手は中にある。膣壁が指を締め上げている。——大翔のペニスだと思い込もうとしている。無理だ。全然足りない。でも記憶が——記憶の中の大翔が——体の中を暴れている。

 声が出ている。

「——大翔……っ、大翔——っ」

 一人の部屋で。大翔の名前を呼んでいる。

 波が——来た。深い波。1回目とは全然違う。体の芯から。子宮の奥から。指では届かない場所から——記憶だけが届いた。

「——っっ——」

 背中が反った。足の指が丸まった。膣が——自分の指をぎゅうっと締め上げた。大翔のペニスを絞り上げるように。でも中にあるのは自分の指で——その落差が、快楽の直後に、寂しさになった。

 声が——部屋に響いた。大翔の名前が。壁に反射して、消えた。

 誰もいない部屋に。

 天井が見えた。白い天井。

 息が荒い。指が濡れている。パジャマの前がはだけている。シーツがぐちゃぐちゃになっている。——一人のベッドで、大翔の名前を叫んでいた。

 涙が出ていた。

 快楽の涙じゃない。寂しさの涙だった。

 自分の指じゃ足りない。足りなかった。2回達して——それでも、体の奥がまだ疼いている。「もっと」と言っている。「これじゃない」と言っている。

 環さんの舌でも足りなかった。蓮さんの完璧なセックスでも足りなかった。あの夜の6人でも——足りるわけがなかった。

 足りないものの正体が——やっとわかった。

 言葉にできた。

 大翔の獣性。

 あの暴力みたいな腰。言葉を失った唸り声。ギラギラした目。——全部奪い尽くして、奪い尽くした後に「好きだ」と言う、あの矛盾。

 あれは誰にも代わりができない。蓮さんにも。環さんにも。自分の指にも。——大翔の獣だけが、私の一番奥まで届く。体がそう言っている。ずっと言っていた。

 蓮さんは美しい夕焼けだった。環さんは温かい毛布だった。——大翔は暴風雨だ。何も残らない。焼け野原みたいに。でも——焼け野原の後にしか、新しい芽は出ない。

 ——帰らなきゃ。

 汚れていても。あの夜のことを抱えていても。あの匂いの中に。

 帰って——話す。全部じゃなくていい。今まで、私の汚れていた部分のこと。あの夜のこと——全部は言えないかもしれない。きっと、言えない。でも「いろいろあった」ということは。「汚れた」ということは。「それでも帰りたい」ということは。

 言わないと——大翔の前に裸で立てない。裸で抱かれた時に、体が嘘をつく。あの夜のことを隠したまま大翔に抱かれたら——9月の夜と同じになる。噛み合わない。獣が起きない。それが——一番怖い。大好きな人に、気持ちも体も我儘になれない。

 「言わなきゃ」。ずっとそう思っていた。あの夜の後から。義務だった。罰だった。——でも今は、違う。

 言いたい。

 大翔の前で口を開きたい。大翔の匂いの中で。あの温かい車の中で。全部吐き出して——それでも抱きしめてもらえるなら。

 環さんが言った。「体が壊れてないなら——心もいける」。

 心を治す方法は——大翔に会うこと。大翔の匂いに包まれること。そしてその匂いの中で、口を開くこと。

 スマホを手に取った。指はまだ湿っている。——タオルで拭いて、画面をタップした。

 大翔のメッセージ画面。さっきの『あったかくして寝ろよ』が最後。

 指が動いた。今度は、迷わなかった。

『今度の土曜、迎えに来てくれる?』

 送信した。——心臓が跳ねた。でも、消さなかった。

 既読がついた。すぐに。

『行く。何時がいい?』

 ——大翔。

 「行く」だけ。「どうしたの」も「久しぶりだな」も言わない。ただ、行く、と。

『夜。仕事終わりに。いつもの場所で待ってて』

『わかった。待ってる』

 ——待ってる。

 大翔は、ずっと待っていたのだ。急かさずに。何も聞かずに。——でも返信はいつも、すぐに来た。

 スマホを枕元に置いた。体はまだ火照っている。指はまだ少し湿っている。涙の跡が、枕に残っている。

 土曜日。あと5日。

 5日後に——大翔に会う。大翔の車に乗る。黒のSUV。ドアを開けた瞬間に——匂いを思い出すはずだ。シートに染みついた、石鹸と汗と体温の匂い。あの重くて甘い、カルキみたいな匂い。

 想像しただけで——目頭が熱くなった。

 車の中で、話す。何を言うかはまだ決まっていない。でも——会えば体が先に動く。いつもそうだった。初めての夜も。目隠しされた夜も。体が先に答えを出して、言葉は後からついてきた。

 目を閉じた。枕に顔を埋めた。——大翔の匂いはしない。でも5日後には、嗅げる。

 環さんが言った。「壊れてない」と。

 壊れていないなら——大翔の腕の中に、飛び込める。もう一度。

 眠りに落ちる直前。最後に浮かんだのは——大翔の目だった。獣の目。ギラギラと光る、あの目。

 怖い。

 ——でも、帰りたい。あの目の前に。

九 咲耶

 土曜日が来た。

 朝から落ち着かなかった。収録中、MCの話が頭に入らない。相槌のタイミングがずれる。15歳からこの仕事をしているのに——今日だけは、プロの笑顔が重かった。

 楽屋で環さんとすれ違った。目が合った。環さんが——ほんの少しだけ、笑った。何も言わずに。

 気のせいかもしれない。

 仕事が終わった。着替えて、メイクを直した。いつもは適当に済ませるのに、今日は丁寧にやった。眉を整えて、リップを塗り直した。——大翔に会うのに、メイクなんて関係ないのに。泣くかもしれないのに。

 夜。渋谷。いつもの裏通りに向かって歩く。12月の風が頬を刺す。人混みの中を、マフラーに顔を埋めて。心臓が速い。手が冷たい。——でも足は止まらなかった。

 路地の奥。人目につかない場所。芸能人の彼女と一般人の彼氏。4年間、ずっとここで待ち合わせてきた。

 黒のSUVが——もう停まっていた。

 ドアハンドルに手をかけた。

 金属が冷たい。指先が震えている。——引いた。ドアが開いた。

 車内の空気が——流れ出てきた。

 匂い。

 大翔の匂い。石鹸と汗と、革シートに染みついた体温。暖房で温められた車内に、大翔の日常が溶けている。

 この匂いだ。

 5日前、記憶の中に探しに行った匂い。薄くて消えかけていた——あの匂いが、今、本物として鼻の中に流れ込んでいる。

 涙が出そうになった。まだ何も言っていないのに。大翔の顔も見ていないのに。——匂いだけで。

 助手席に乗り込んだ。ドアを閉めた。車内が暗い。ダッシュボードの微かな光だけ。

 運転席に——大翔がいる。

 大きい。暗くても体の大きさがわかる。シートが体の幅で沈んでいる。横顔。顎のライン。短い髪。——3ヶ月ぶり。ずっと、文字だけでこの人を感じていた。それが今、手を伸ばせば触れる距離にいる。

 大翔がこっちを見た。

「よう」

 低い。温かい。——この声。この声が聞きたかった。文字じゃない。空気を伝わってくる、本物の声。

「……うん」

 声が震えた。——ダメだ。匂いと声で。もう泣きそうだ。

 でも——まだ。泣く前に、言うことがある。

 大翔がシフトレバーに手をかけた。

「飯、食ったか?」

「……食べてない」

「おにぎり買っておいた。後ろにある。走りながら食え」

 ——この人は。私が食べていないことを、知っていた。

 車が走り出した。渋谷の夜道。ネオンが窓を流れていく。

 後部座席のコンビニ袋からおにぎりを取った。サーモンとツナマヨ。お茶のペットボトル2本。——いつも同じ。私がサーモンで、大翔がツナマヨ。聞かなくてもわかっている。

「いただきます」

「おう」

 車内で食べる。いつもこうだった。会えた日の最初のごはんは、大翔の車の中。コンビニのおにぎり。背もたれを少し倒して、膝の上にティッシュを敷いて。4年間、ずっとこうしてきた。

 サーモンが舌の上でほどけた。冷たいご飯。コンビニの味。——でも今夜は、何を食べても温かく感じる。

 暖房が効いている。海苔の匂い。お茶の温かさ。——その下にずっと、大翔の匂い。吸うたびに肺の奥まで届く。

「最近の現場どうよ」

「うん。冬クールのバラエティ。環さんと一緒で」

 ——「環さん」と言った瞬間、喉の奥がかすかに詰まった。

「ああ、環さんか。いい子だよな」

 ——いい子。大翔がそう言う。何も知らない声で。

 大翔がスタジオの近くのラーメン屋の話をした。

「味噌が死ぬほどうまい。今度連れてく」

「大翔、ラーメンの話する時いつも『死ぬほどうまい』って言うよね」

「うまいもんはうまい」

 笑った。二人で。車内に笑い声が響いた。暖房の温もりと、海苔の匂いと、大翔の声と。——こんなに普通の時間が、こんなに温かいとは思わなかった。

 大翔が笑っている。目じりの皺。——あの顔。好き。ずっと好きだった。

 おにぎりの最後の一口が、喉を通らなかった。お茶で流し込んだ。

「……ごちそうさま」

「おう」

 大翔がゴミを後部座席のビニール袋にまとめている。その横顔。——何も知らない横顔。今日ここに来た本当の理由も。この数ヶ月、私がどこで何をしていたかも。

 ——言わなきゃ。この「普通」に甘えていたら、永遠に言えない。

 車が住宅街に入った。ネオンが消えて、街灯だけになった。

 会話が途切れた。ラジオはかかっていない。エンジンの低い唸りだけ。

 沈黙の中で——大翔の匂いが、もっと濃くなった気がした。会話が消えると、嗅覚が鋭くなる。

「来年はもう少し会えるといいな」

 ——来年。大翔は来年の話をしている。この関係が続く前提で。この車で、おにぎりを食べ続ける前提で。

「……大翔」

「ん?」

「……今後のこと、なんだけど」

 大翔のハンドルを握る手に、一瞬だけ力が入ったように見えた。

「今後って?」

「……私たちの」

 空気が変わった。車内の温度は同じなのに——違う。

 大翔が前を向いたまま運転している。表情が読めない。暗い。横顔の輪郭だけが、街灯の光で浮かんでは消える。

「——話があるのか」

 大翔の声が低くなった。普段の低さとは違う。芯が太くなったような低さ。——気づいている。何かを。どこまでかはわからないけれど。

 怖い。大翔の声が低くなったことが怖い。——なのに、下腹が熱い。太腿の間が——濡れ始めている。大翔の匂いの中で。大翔の低い声を聞いて。

 これから汚い話をしなきゃいけないのに。体は大翔を求めている。——ひどい体だ。

 太腿をぎゅっと閉じた。

「……うん。話がある」

 声が震えていた。

——体験版はここまでです——

告白の先に待つもの。涙。キスだけの絶頂。
そして——塗り替えるためのセックス。
全16章+幕間、約196,000字の完全版でお楽しみください。

本作品はAIを執筆補助に利用しています(著者が企画・指示・監修・編集)。
全ての文章は著者の指示・確認・修正を経ています。
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